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白河上皇は「院政を始めた」のか?

1086年 白河上皇が院政を始める

歴史の年表にはこんな一行が載っています。

当時は藤原氏が天皇に代わって政治を行う「摂政」「関白」という地位を独占し、政治を主導していました(摂関政治)。

そんな中、白河天皇は息子に天皇の位を譲って「上皇」になることで、藤原氏(摂政・関白)のコントロール下から離脱。
「天皇の父」という資格で政治を主導することになったのです。

だがこの通説には疑問が残る

が、ここで疑問が生じます。

天皇ではなくなると、摂政・関白の言うことを聞かなくて済むようになる。それは分かります。
でもそうなると、摂政・関白は次の天皇に言うこと聞かせて政治をするような気がするのです。なぜ上皇になることで「院政」ができるようになるのでしょうか?

白河上皇は院政をやるつもりはなかった

実は白河天皇、そもそも院政をやるために譲位したわけではなかったんだそうです。

当時の朝廷は、白河天皇の次の天皇の座を巡ってごたごたしていました。

白河天皇は自分の息子を次の天皇にしたいと考えていましたが、白河天皇の異母弟も天皇の位を狙っていました。
というか、どちらかといえば異母弟の方が有力な候補でした。

そうした状況を納めるために、白河天皇は息子(堀河天皇)に位を譲って上皇となります。既成事実を作ってしまった感じでしょうか。

堀河天皇は当時8歳。もちろん政治など分かるわけもなく、白河上皇が息子に代わって政治を司る。
いちおうこれが院政のスタートとされていますが、この時点ではまだ藤原氏も勢力を有しており、息子である堀河天皇も成長するにつれて自己主張を始めたため、白河上皇の権力は限定的でした。

訪れた転機

しかし、大きな転機がが訪れます。

堀河天皇が夭折し、その皇子がわずか5歳で即位(鳥羽天皇)。当然ながら、政治を取り仕切ることなどできるはずもありません。

さらに天皇を支えるべき藤原氏も当主が急逝し、新当主は若く政治的に未熟だったため、摂関政治も機能不全に陥りました。

結果、政治のことが分かるのは白河上皇しかいないということで上皇に権力が集中。
必要な組織や制度を徐々に整えていき、後に「院政」と呼ばれる体制が出来上がったのでした。

結果から遡って評価されるやつ

その後も院政は、時に中断しつつも存続・発展していきます。
ゆえに後の世の我々はこう考えるのです。

「白河上皇が院政を始めたのだ」

と。

もちろん、院政を始めたのが白河上皇であることは間違いありません。

しかしその経緯を見てみると「院政を始めた」というより「後に院政と呼ばれるものが結果的に始まった」というのが正確な表現のように思えます。

後世の知識を持っている私たちは歴史を見る際、その後の結果から遡って

「最初の時点で明確な意志を持って始めたのだな」

といった判断をしてしまいがちです。

有名なところで言えば、織田信長が室町幕府を滅ぼしたのは「結果的に」であり、信長の本意ではなかったことが近年の研究で明らかにされています。
しかし、長らく「信長は最初から室町幕府に取って代わるつもりでいたのだ」と言われてきました。

歴史に限ったことではありませんが

「当事者は何を知っていて、何を知らないのか」

を意識しておかないと、割ととんでもない勘違いをしてしまう恐れがあるのです。

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