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歴史の話

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記事一覧

白河上皇は「院政を始めた」のか?

歴史の年表にはこんな一行が載っています。 当時は藤原氏が天皇に代わって政治を行う「摂政」「関白」という地位を独占し、政治を主導していました(摂関政治)。 そんな中、白河天皇は息子に天皇の位を譲って「上皇」になることで、藤原氏(摂政・関白)のコントロール下から離脱。 「天皇の父」という資格で政治を主導することになったのです。 だがこの通説には疑問が残る が、ここで疑問が生じます。 天皇ではなくなると、摂政・関白の言うことを聞かなくて済むようになる。それは分かります。

天王山は天王山じゃないよという話

「今日の会議が天王山だ。気合い入れていくぞ!」 「あの課長、天王山って何ですか?」 「知らないのか? 勝負所って意味だ」 「なんで天王山が勝負所になるんです?」 明智光秀 vs 羽柴秀吉課長に代わってご説明しましょう。 天王山は、京都南部、大阪府との県境(府境?)付近にある標高270メートルの山です。 1582年、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、信長の仇を討つべく駆け付けた羽柴秀吉が、この山の付近で激突します。 これが「山崎の戦い」ですが、この時 「要衝である

「調べれば分かるものをなんで暗記しなきゃいけないの?」に対する私なりの答え、あるいは楽しく歴史を学ぶ方法

先日、学生さんが 「歴史の勉強きらい。調べたら分かるものをなんで暗記しなきゃいけないのか」 と嘆いているのを聞いて、それはね……と語りかけようかと思ったんですが、求められてもいないアドバイスをするほど無粋なことはないと思いとどまって、替わりにここに書いてみることにしたのです。 結論から言うと、調べれば分かるものを暗記しなければいけないのは 「明確な問いがなくてもその知識を取り出せるようにするため」 です。 あんまり意味のない暗記たとえば水の性質について 化学式は

小早川隆景に学ぶ交渉術 その3「豊臣秀吉の申し出を後腐れなく断れ」

「謀略の神」と呼ばれた毛利元就の息子で、元就が安芸(現在の広島県)の一地方領主から中国地方の覇者へと昇り詰めるのを助け、元就の死後はその後継者である輝元を支えた小早川隆景(こばやかわ たかかげ)。 豊臣秀吉や黒田如水(官兵衛)からも一目置かれた智将であり、活躍したエピソードには事欠かない人物ですが、その生涯を追いかけながら「交渉」という切り口で隆景の魅力に迫ってみたいと思います。 その1、その2はこちらからどうぞ。 豊臣秀吉の憂鬱本能寺の変によって生じた大混乱をなんやか

小早川隆景に学ぶ交渉術 その2「羽柴秀吉と講和せよ」

「謀略の神」と呼ばれた毛利元就の息子で、元就が安芸(現在の広島県)の一地方領主から中国地方の覇者へと昇り詰めるのを助け、元就の死後はその後継者である輝元を支えた小早川隆景(こばやかわ たかかげ)。 豊臣秀吉や黒田如水(官兵衛)からも一目置かれた智将であり、活躍したエピソードには事欠かない人物ですが、その生涯を追いかけながら「交渉」という切り口で隆景の魅力に迫ってみたいと思います。 前の話はこちらから。 甥・輝元を支える大内、尼子といった大勢力を次々と打ち破り中国地方の覇

小早川隆景に学ぶ交渉術 その1「村上水軍を味方に引き入れよ」

「謀略の神」と呼ばれた毛利元就の息子で、元就が安芸(現在の広島県)の一地方領主から中国地方の覇者へと昇り詰めるのを助け、元就の死後はその後継者である輝元を支えた小早川隆景(こばやかわ たかかげ)。 豊臣秀吉や黒田如水(官兵衛)からも一目置かれた智将であり、活躍したエピソードには事欠かない人物です。本記事ではその生涯を追いかけながら、「交渉」という切り口で隆景の魅力に迫ってみたいと思います。 誕生、そして小早川家へ小早川隆景は1533年生まれ。 1534年生まれの織田信長と

木ごとに花ぞ咲きにける

先日、愛知県西部にある寧比曽岳に登ってきました。 大多賀峠というところからスタート。 当日は良い天気でしたが数日前の雪が残っていて、青い空と白い雪のコントラストがとてもきれい。風が吹くと雪がちらちらと舞い、日の光に照らされて輝きます。 まるで花が咲いているみたいだよねーと思ったんですが、あれ、そういえばそんなような情景を詠った歌があったような? と思って帰ってから調べてみたら、割とたくさんありました。 やっぱりみんな、花に見えるんだなあ。 そんな中から、これ面白いなと

名古屋の始まり

ちょっと名古屋の歴史についてお話しする機会があったんですが、話として普通に面白いじゃんと言っていただけたので、noteにも載せてみることにしました。 尾張と三河愛知県は今でこそ一つの県になっていますが、中世以前は尾張と三河という別の国でした。 線引きはだいたいこんな感じ。 尾張は土地も開けていて京都、岐阜、三重方面に向かう街道が集まり交通の便が良く、熱田神宮(参拝客でにぎわう門前町が形成される)、津島の港(現在は内陸ですが、当時は海岸線がここまで来ていました)といったス

文明開化と昆虫食、あるいは10年で価値観が大きく変わる話

先日、昆虫食の可能性について議論をする機会がありました。 無印良品がコオロギせんべいを発売するなど、少しずつ広まる機運を見せつつありますが 「なんか気持ち悪い」 「どんなに栄養価が高いと言われても、抵抗感が勝る」 「一部の人に受け入れられることはあっても、大衆化するとは考えづらい」 というのが大勢を占めていました。 しかし、あと10年したら昆虫食が当たり前になる可能性があることは、歴史を見れば分かることなのです。 牛を食べるなんてとんでもない現在、私たちは当たり前の

藤孝について調べていたら忠興に思いを馳せていた話

縁あって 「明智光秀と細川藤孝の関係を語る」 という謎のプレゼンをさせていただいたのですが、その準備のためにこんな本を読みました。 細川藤孝(幽斎)、息子の忠興(三斎)、孫の忠利という細川家三代の事跡を割と深いところまで、それでいて分かりやすく紹介している名著で、特に二代目である忠興の立場の変遷が面白い。 本名は忠興、出家して三斎。彼は細川ガラシャの配偶者、あるいは最近だと「歌仙兼定」の持ち主として有名ですが 父・藤孝の庇護下で、当初は最前線で戦士として活躍 ↓ 父

北条政子のあの名スピーチを考える

承久の乱では「尼将軍」こと北条政子の名スピーチが武士たちを動かして鎌倉幕府を守ったとされています。 北条政子のスピーチの、どこがどう凄かったのかという話です。 イベント概要まずおさらいをしておきますと、承久の乱は 1221年(承久3)後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵を挙げたが、執権北条義時を中心とする幕府軍に鎮圧された事件 というものです。 結果的には1か月ほどで収束したため、後鳥羽上皇の無謀な挑戦、幕府余裕の勝利に見えます。しかし乱の勃発当初、幕府側の武士たちはだいぶ

学力は同じでも志望校合格率に10%の差が生まれる理由

進学塾の先生に聞いた話なのですが、同じ偏差値50でも A集団「偏差値60の学校が第一志望」 B集団「偏差値50の学校が第一志望」 という二つの集団が偏差値50(つまり実力相応)の学校に合格した割合を見たところ、A集団の方が10%くらい高かったのだそうです。 届かない目標を追い続けると、常に全力疾走せざるを得ない。 分相応の目標だと、どうしても緩みが出る。 その辺りが合格率の差に表れているということでしょうか。 そういえば毛利元就もまだ安芸国(現在の広島県)の一部しか支

職能資格制度と官位相当制

古代の日本は国の制度を整えるにあたって中国から多くのものを取り入れましたが、人事制度もその一つでした。 役人の地位を位階(ランク)と官職(役割)で表すというシステムで、たとえば 正二位・内大臣 従五位下・治部少輔 といった具合で、ランクと役割が一目瞭然という便利なものでした。 (前半が位階で、後半が官職) しかしこの人事制度、運用面では日中で大きな違いがありました。 中国は官職に位階が付く本場中国では、官職に対して位階が設定されるという運用になっていました。 た

「せかいしけいえい」に参加してきました

名古屋大学の学生、堀成海くんが主催する「せかいしけいえい」というイベントに参加してきました。 世界史の中から教訓を得て、それを経営(っていうか実生活)に活かそうぜというのがコンセプト。 第6回のテーマは「ナポレオンと情報」でした。 ナポレオンといえば一介の軍人から身を興し、革命を経てぐだぐだになっていたフランスを掌握し、立て直し、ヨーロッパをほぼ征服した大英雄。 軍事の天才として知られ、実際にその戦績は42戦39勝という驚異的なものでした。 ナポレオンはなぜそんなに強