つながっていない、がデフォルト
前の記事で
「つなげる」ことに心を砕きたいと自分は思っている、
と書いたけれどもそれは、 そもそもが
「つながっていない」からなんだ、
ということなんだけれども、そこを共有するのが難しいといつも思う。
ややこしいのが、
つながっている、ということが当然のこととされていたり、
或いは、つながっているかどうかなんて問題にもならなくて大股でその溝を渡っていくのが潤滑な人間関係ということになっていて、
でも、私は渡れないでいつも立ち止まっていた。
そして、つながっていないと感じるものをつないだことにできない自分はどこかいつも不安定。それは今もそうで、足元はいつもおぼつかない。
かつて、どちらにも付けない自分は、逆コウモリのように、白組にいっては紅組を援護し、赤組にいっては白組を援護して、理解を促すつもりが、せっかく一つにまとまっているものもバラバラにしてきて、自分自身もいつも身の置き場に困っていた。
挙句、 どちらからも返ってくる言葉は「懐疑的・批判的」
それはそうだろう。そうだったんだね。
私自身、いったいなんでそうなるのか、わからなかった。
それが、「つながっていない」からこそ「つなぎたい」んだ、と気がつくのはもっとずっとあとの話。
紅組か白組か、どちらか側についていれば、視点は定まる。
そうなると、つながっている者同士はその差異を云々はしないし、対立するもの同士は、つながってるかどうかなんて問題外。
でも大抵は、紅組も白組もどちらにも分があり、リスクも有り、正義もある、嘘もあるし、つじつま合わせもある。 同じ紅組でも人の数だけのバリエーションもあるはずなんだ。でも、そこからものを考えていく、積み上げていくっていうのは、実はとんでもなく、問題をややこしく、難しくしていってしまうことで、それよりもカテゴライズしてしまえばずっとことは単純になる。でも、それでも透けて見えてくるもの、カテゴライズにおさまってなんかいない現実をどうすればいいんだろう?
それは人と人の間のことだけではなくて、一人の人間の中でもだし、物事を考える筋道の途中でも、どこでも、 もう、本当にどこでも、同じ所で躓いていた。
そう、私が最初に躓いたのは(気づいてしまったのは)、何かをつなげたい、ということではなく、
つながっていない、ということ。
つながってない、がもともとのありよう、デフォルトで標準仕様だったていうこと。
だから結局のところ自分自身も何にもつながれないでいた。
自業自得。 でも、それでよかったんだと思う。
若かった私、それを手放せないのは苦しかったけれども、私は今も、同じ場所にいる。
だから、今は「つなげたい」と思うとき、
まずその前に「つながっていない」ところから共有していきたいとおもうんだ。
それがわかってからは、どうやったら紅組にも白組にも行かないで、不安定なままでもいいから、そこにいる、ということができるか、と考えるようになった。
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