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人と音楽のあいだを満たすものについて

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人たちのかけがえのないいとなみと連動する音楽のことを考えたい。 音楽学者ではないけれど、いえ、だからこそ見えてくる音楽があるはず。音のない音楽のことや、自然のなかの音楽のことなど…
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#コラム

手放すことはじぶんにしかできない

マガジン・"音楽"を伝える音楽教室に 前回に書いた記事、音程感を補修していくことをかいたものの中で、「掴むことより手放すことのほうが難しい」、と書いて、あれから手放すっていうことについて、つらつらと考えています。羅列というか覚書みたいな感じで書き出してみました。これは正しいと思っているわけではなく、「手放す」という言葉に対する私の中の情報を引き出してみよう、という試み。辻褄はあっていないかもですが、とにかく書き出してみました。 教える側は「掴む」ことを前提としている 何

もしも音楽が荒廃していくとしたら 2

もしも音楽が荒廃していくとしたら1のご案内以前に書いた記事、もしも音楽が荒廃していくとしたら1の続きになります。 1では、私が音楽教室をやっているのに「何を教えていいのかわからない」と思い悩み、突き詰めていくうちに、「そうか、人間の社会が荒廃していくということと、音楽が荒廃するっていうことは、おんなじフィールドでおこることなんだ。」と気がついた、ということを書きました。 五感を超えた感覚の深みから音楽と人との間に切っても切れないものとして、人の感覚があります。 音楽と聞い

問いを深めることがレッスンの意味

初めの問いはその人にも分からない、がデフォルト教室のドアを開ける人はさまざまで、音楽に対して持つイメージや思いは、みんな違っています。そして、その憧れや、問いへの対象はまだ曖昧です。はっきりとこうしたい、と言っている人でも、私なりに解釈し、それをどのように実現していくか筋道をたて具体的に関わろうとしてみると、その「こうしたい」はその対象を掴み得ず、結局理想というのは、曖昧なもんです。それは、当然だし、仕方ないことです。だって、まだ未知なもの学びに来てるんだから、全部わかってた

手に馴染んだ道具のような音楽

小さいお子さんには、ピアノよりも、わらべうた。 そのほうがうんと子どもの栄養になります。 音楽は音符の点ではなくて、その音と音の間にたくさんの滋養があるし、そこにあるもののほうが実質だというのが、utena.m.fの向かっている方向です。だから、そこになにもないままピアノに向かうのは無謀だ、という考え方です。 子どもが子どもの全体性でもって関わっていける音の数やあがりあさがりのもの、子どもの琴線をしっかり揺らしてくれるもの、ということで、 私はわらべうたを子どもたちとや

時間

時間のある瞬間を狙い打ちできるようになると、 演奏はずいぶんと変わってきます。 リズムに乗って演奏する、という場面から、 さらに奥の話になるのかもしれませんが・・ それは物理的な時間の流れとは別に、 意識の中にはたくさんの時間の流れが存在している、 ということの証明でも在るように思えます。 演奏というのはいかに ”一定方向にしか流れない物理的な時間軸”に それ(たくさんの時間)を表出させられるか、 ということなのかもしれない。 もしかしたらスポーツなどでも、そういった場

自由ではなく自在さ

子ども達にピアノを教えるに際して、 指針にしている言葉がいくつかあります。 その中の一つ。 「自由ではなく、自在さ」 河本英夫という人の言葉です。 つまり、「使える」ことがまず大事だということ、 と、わたしは解釈しています。 私に足りなかった部分であり、今も頭が躊躇するものを奮い立たせながらしかできないことです。 私自身がまだ自在さを獲得すべく、学んでいる最中なのかもしれません。 自由は、個人に関わることで、 教えられるものではない。 音楽的才能ってやつもそうです。 本

つながっていない、がデフォルト

前の記事で 「つなげる」ことに心を砕きたいと自分は思っている、 と書いたけれどもそれは、 そもそもが 「つながっていない」からなんだ、 ということなんだけれども、そこを共有するのが難しいといつも思う。 ややこしいのが、 つながっている、ということが当然のこととされていたり、 或いは、つながっているかどうかなんて問題にもならなくて大股でその溝を渡っていくのが潤滑な人間関係ということになっていて、 でも、私は渡れないでいつも立ち止まっていた。 そして、つながっていないと

ムシカ・フマーナ

この2ヶ月は、父の看病にのめり込んでいました。 父と私の間をつなぐものは、音楽でした。父は、もともと音楽に馴染んだ人ではありませんでしたが、閉ざされた感覚と痛みと飢えと強度のストレスの中、かろうじて音楽がコミュニケーションのツールになったのです。それは、お互いに不器用なものでしたが、ムシカ・インストゥルメンタリス(楽器の音楽)だけではなく、それを超えて、ムシカ・フマーナ(身体の音楽)そしてもしかしたらかすかに、ムシカ・ムーンダーナ(宇宙の音楽)の端尾にも触れたかもしれないと

つながれない、はその先を夢見る

では、なぜ、例えば人は「寂しい」と言う言葉が理解できるのだろうか? 自分以外の人の「寂しい」をじかに知ることはないのに 自分の 寂しい の感情を「これは寂しいっていうことなんだ」と どうしてわかってるんだろう? 私たちは何を個別の体験とし、 何を共有しているのだろうか? 以前いろんな人と対話するなかでよく壁のように立ちはだかるのが 「人のことはわからない」 という言葉だった。 それは確かに一つの真実。 人のことはわからない。 私が、簡単にわかった気になったり、

つなぐもの

ものごとの器ではなく、そのあいだ、"つなぐもの"に私は惹かれ続けてきた。 単に音符や技術や音感を教えるのではない、 もっと、音楽に直接触れるようなものを教えたい、と思っていた。 それをアーティスト、とか、芸術家とか呼ぶのは少しオコガマシイ気がする。 それに、実はそういう呼び名はどこか 高みだけを目指しているようだったり、オリジナリティを追求するようだったりで、自分のしたいところと咬み合ってこない。 ヨーゼフ・ボイスや日比野克彦の活動に共感するものが私の中にあって、 それは

音をなぞるのではなく紡ぐこと

いつの間にか、のその間の蝉の声 朝、日が昇るころからわんわんとないていた蝉は、 いつ鳴かなくなったのだろうか? ちりちりと秋の虫が静かに夜明け前から鳴いている。 時間、というのは、未来に向かって一直線に進んでいる。 けれど、一本道を振り返るようにして、 いまさらだとしても、耳を傾けようとしてみる。 蝉が鳴き止まったそのときの、音? 無音? そこに挟み込まれる風や自動車や秋の虫の声。 立ち止まった途端、そこに時間がせめぎ合う。 たくさんの情報が沸き立ってくる。 聞こえるも