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つなぐもの
ものごとの器ではなく、そのあいだ、"つなぐもの"に私は惹かれ続けてきた。
単に音符や技術や音感を教えるのではない、
もっと、音楽に直接触れるようなものを教えたい、と思っていた。
それをアーティスト、とか、芸術家とか呼ぶのは少しオコガマシイ気がする。
それに、実はそういう呼び名はどこか
高みだけを目指しているようだったり、オリジナリティを追求するようだったりで、自分のしたいところと咬み合ってこない。
ヨーゼフ・ボイスや日比野克彦の活動に共感するものが私の中にあって、
それは、単に美しいものとしての芸術ではなく、
日常に使えるもの、社会に流れていくもの、でありたいという思いがあった。
かと言って、なにか「音楽に触れています」という気分だけのようなものは、正直苦手、私が向かいたいのはどこだろう、と、霧の中を模索する、30代、40代だった。そうするうちに、今に流れ着いている。
私のやってることなんて、何も斬新なものなんかなくて、
音楽のドローイング「音楽を描く」という手法はシュタイナー教育のフォルメンやオイリュトミーや、遊戯療法のスクイッグルの延長で、やっていることは音楽の基本中の基本に過ぎない地味なものだと思う。
やってるうちに子どもたちに受けたからつづいてるので、
もし、子どもがあきたら、もうやらないな。
「音楽を描く」という方法は、伝える媒体であって、それ自体が目的じゃないから。
じゃあ、なんだろうと。
私のしたい事は、
そうか、
つなぐ、ということなんだと、それなら、納得がいく、と思った。
つなぐものは
生身の身体と、精神だったり、
過去と現在と未来だったり、
西洋と東洋であったり。
自分と他者だったり、
止むに止まれぬ感情と、冷静な判断だったり、
それは、私のしごと、というか、
音楽の仕事なのだと思った。
そうか、私はずっと、2つの異質なものを分けていく、という作業をしているようだったけれども、それは、つなぐための糸口を探していたんだなと今になって思う。
つなぐためにこそ、両者の差異を見極める必要がある。
そういうことは、大好きで、苦労を厭わない。
(言葉ってすごいなとおもう。
こうやって、自分の辻褄が合ってくると、
ちゃんと、言葉は降りてくる。
言葉がうまく当てはまった時に
ちゃんと心で受け止められるようになる。
自分のものとして、リアリティが言葉によって裏付けされたとき
初めて人に伝えられるようになる気がする。)
使い勝手がいいとは限らない自分の身体で、
音楽を学び、それを自分の中に、自分なりのやり方で、
取り込んでいく、ということは
分断されていた様々な原因を見極め、それをつないでいくことで、
そこをこそ、
私はしたかったのだと。
それを、私は芸術と呼ぼうと思う。
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![音楽前夜(谷中みか)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/7090636/profile_2833076fb42d76adaa0ff1b7ed0f2e8a.jpg?width=600&crop=1:1,smart)