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人と音楽のあいだを満たすものについて

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人たちのかけがえのないいとなみと連動する音楽のことを考えたい。 音楽学者ではないけれど、いえ、だからこそ見えてくる音楽があるはず。音のない音楽のことや、自然のなかの音楽のことなど…
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#音楽

種を超えたコミュニケーションルート

土の微生物や菌類に”思い”があるのかどうか。 そしてそれは種を超えた人間とやりとりなんかできるのか・・ ジョウビタキが、その答えを持ってきた・・というと大袈裟なんだけれども、 私はセンス・オブ・ワンダーな体験をしてるのかもしれない。 父が残した畑は、あまりの広さと先の見通しのなさに気が滅入る時もあるけれど、作業の合間、あの畑の十字路の真ん中に椅子を据えて、一息つく時の浄福感がたまらない。 そういえばいつも夏だけ作る糠漬けが今までより格段においしかったのは、何か畑仕事とリンク

こんな時代だからこそ、自分の”歌”を。

新しい年が始まりました。 雲ひとつない空に金管楽器の高らかな音色のように光り輝く初日の出。 思わず柏手を打ちました、と言ってもすでに高く登った太陽に向かって。 去年までは、さあ新しい年だから、この一年を元旦から始めるのだという勢いがありました。 去年は、でも、そう、能登半島の大地震によって・・ 一年の抱負を胸にたくさん抱きながら、年末には何を抱負したかも忘れる始末の、毎年の自分の、元旦のうわっ滑りな軽さが吹き飛んでしまったようで、今年は、どこかそういうことに対して慎重な思

音楽なんてなんの役に立つん?

「若い頃、ある人に、音楽なんかなんの役に立つん? と言われて何かずっと引っかかっていたけれど、 たになかさんの話を聞いていて、そうですよね、 人にとって必要なものですよね。」 と、ある方がはなしてくれました。 多くの人が、 肯定的であれ、否定的であれ、 音楽を、人間が生きていく最低限の衣食住、あるいは、学業、 生理的にも社会的にも、とりあえずなくても生きられるもので 基本的ではなく余剰のもの、肯定的に言えばギフト、 否定的に言えば無駄、むしろ人を惑わせるものと認識しているの

音楽と対話するドローイング

音楽を描く(utena drawing)音は、 時間の中にあります。 耳を澄ませる、ということは、 時間に心を寄せる、ということでもあります。 音楽に耳を澄ませ、そのさまを描く。 そこには、どんな形であれ、 音楽と、”私”とのふれあいが あります。 描かれたものは、かけがえのない”私”の時間の経過でもあります。 utenadrawingは、音楽を描いてみる、というちょっと変わった方法です。 そしてそれを支える内容・理論の方はもっと風変わりなものかもしれません。

”私”の読み解き

人と音楽の間を満たすものについて 今の社会の正体のなさって 一つには”私”の読み解きの掘り下げ方のまずさがあると思う・・・ ーー こないだから「私」ってなんだろうと探っているのだけれど それは昔、若い頃考えていたような、メンタル的なところではなくて 動きや、中心のあるなし、と言えばいいのか ちょっとうまく言葉にできないけれど ちょっともしかしたら何か近づいてるかもしれない。 そもそも、そう、昔は 「私」とは感情であり、身体であり、思考だと思っていた。 触れられる存在に

音を造形していく力

ひとつの音の楽曲の中の役割が見えてきたら、 それが全体の中で、その意味がなせるように 音の粒、ひとつひとつ、音の流れやいろんなフェーズで 音を形作っていく、造形していく力がいる。 それは彫刻のように立体的で、時間経過の中を生きる。 統合していくのが”私”の作業だ。 ときにそれは、自分の感情も、過去の痛みも 何もかもそこへ投げ出して、練り込んで (だって自分が持っているツールはそれで、 使えないツールはないんだから。) 時間の中に、造形していく。 その作業に優劣なんかなく

【読んだ本】ゲーテの世界観

ゲーテの世界観/人の内と外は決して分断されてはいない・・ ”人の内と外は決して分断されてはいない。” 折に触れ立ち返り、何度も読み直す本の一つです。 哲学の世界では、イデア(物事の本質)と人の内面は切り離され、人の内面は閉ざされたもの、という認識が一般的でした。 ゲーテといえば、シューベルトをはじめ、ベートーヴェン・ヴェルナー・ブラームス・シューマン、メンデルスゾーン、ヴォルフ、リームなど、彼の詩を歌曲にした作曲家は枚挙にいとまがありません。その詩人としての、ゲーテ。

森と微生物の対話は音楽的なあり方をしているに違いない

音楽と土に通じるもの 土中環境(忘れられた共生のまなざし、蘇る古の技)の著者、高田宏臣氏によると、森と微生物は常にコンタクトをとっているのだという。 私は先週都会から帰ってきて、一転、実家の土に触れながら思った。 その微生物と草や木のコミュニケーションの方法は音楽的なあり方をしているのかもしれない、と。 それは、その「音楽的なるもの」が何か、という定義から掘り下げて語らなければ繋がらないことなのだけれども。 相互のやり取りに活性化される 今週木曜日まで東京でワークショッ

あそびは日常か非日常か。

子どもたちの遊びと音楽のことを昨日書いた。 その連想ゲームみたいなもので、 ふと、 遊びっていうのは果たして日常なのか、非日常なのか、 というどうでも良いような、とても大事なことのような といが生まれてきた。 暮らしの中に息づく遊び・・なんていうじゃないですか。 わらべうた、とか。 私も子ども向けのワークをするときには、 日常に出会うもの、小さな虫や、動物や、お母さんの仕草や 隣のヘンテコおじさん、そんな題材を大事にしている。 でもな。 取り上げている題材は確かに暮らしの

小さい声に、小さい声で答えること。

ピアノレッスン生のグループワークの時。 幼児さんクラスは 生徒の一人が即興で何か歌い出したかと思えば、 それをいつしかみんなで歌っていたり、 クレヨンを人に見立てて友達とごっこ遊びをやったり、 好き放題やっているようだけれども、 私が小さい声で話し始めると、同じようにトーンを落としてくるようになった。 場を読み、場を作るのが上手くなってきてるなと思う。 そういう遊びの言語をだんだんとこの子達は身につけてきている。 歌はいつも手遊びや、ドローイングと一緒に。 歌を歌だけで歌

一枚の写真から音楽を読み取る試み

ある霧のたった朝の河辺の風景です。 ちょうど一羽の白サギが飛び立ったところ。 ここにある音楽を聴いてみよう、という試み。 あるいは、ここにある音を音楽に変換して感じてみる。 この瞬間の前後も読み取りながら。 音楽は音とは限らないくて、動きや、形。 また、そこにあるさまざまな質感を味わってみる。 そしてあらためて音楽を思い起こしてみる。 岸の直線、石積みの硬さ。 拡大してみて、水の方向や、質量 人の手によって密植された木々のミニマムな連続。 そして、さながらメロディのよ

レントな母とアレグロな私

実家での食事がまだるっこしい。 もうやがて90になる母の偉いところは 腰が痛くてもゴミ出しに自分で行く。 段差のあるところで手を貸してもはねのける。(気が強い) 必ず、花瓶に花が飾ってある。 夕方農作業(というより野原遊び)から私が帰ってくる頃に お風呂を入れてくれている。 花壇の手入れは欠かさない。(もうできません、と言いながら) お年頃故、同じ話をなん度も繰り返すが、 記憶はちゃんと更新されている。 とにかく元気でいてくれることに感謝しかないけれど、 ただ、食事の支度

音と音のあいだに音楽がみえる

どうして音楽に心揺れるんだろう音楽って、私たち、わかっているようで、結構謎なところもありますよね。 謎も人それぞれなのかもしれませんが。 ”音楽ってなんやろうなあ、どうしたらもっとなかよくなれるのかな・・”と思い巡らせて、結局私がたどり着いたのは、音楽って音の点のところではなくて、音と音の間にあるんだということでした。 そこ、音と音のあいだって、人の感覚や体験があるところでもあります。 実際何か音楽から直感的に受け取っているのは、音一つ一つではなくって、そういう体験の

演奏につまづく人に・・

楽器を演奏するとき、間違うから、迷うから、と、どうか悲観しないで。 いろんなシーンで音楽と関わって、 また、生徒さんや、ワークショップの受講者さんと関わってきた経験から、 お話ししたいことがあります。 間違わない演奏が正解? 間違いなく演奏できていても大事な何かが遠いなっていうこともあるし、 たどたどしくってもそこに美しい脈があって、それを届けてくれて嬉しいなと思うこともあります。ちゃんとそれは聞こえているんです。 音楽に正解はないです。 たしかに。 でも、もしかし