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あの音楽を追ってそこに音楽がなっていたら、「あ、音楽がなってるな」とだれでもがわかりますよね。でも、一旦、じゃあ音楽ってなに?と問い始めて、その姿をはっきりと見ようと追いかけ始めると、追えば追うほどにその実体がわからなくなるのです。 私の半生ってそれでした。 自分の過失で火事を起こしたときにひろったのは、2つの真反対のもの。 ひとつは自分の行為がとんでもないことをひきおこすのではないか、という不安神経症。 もう一つは、自分が音楽に救われたということ。 以前この記事に書いた
前の記事で 「つなげる」ことに心を砕きたいと自分は思っている、 と書いたけれどもそれは、 そもそもが 「つながっていない」からなんだ、 ということなんだけれども、そこを共有するのが難しいといつも思う。 ややこしいのが、 つながっている、ということが当然のこととされていたり、 或いは、つながっているかどうかなんて問題にもならなくて大股でその溝を渡っていくのが潤滑な人間関係ということになっていて、 でも、私は渡れないでいつも立ち止まっていた。 そして、つながっていないと
では、なぜ、例えば人は「寂しい」と言う言葉が理解できるのだろうか? 自分以外の人の「寂しい」をじかに知ることはないのに 自分の 寂しい の感情を「これは寂しいっていうことなんだ」と どうしてわかってるんだろう? 私たちは何を個別の体験とし、 何を共有しているのだろうか? 以前いろんな人と対話するなかでよく壁のように立ちはだかるのが 「人のことはわからない」 という言葉だった。 それは確かに一つの真実。 人のことはわからない。 私が、簡単にわかった気になったり、
ものごとの器ではなく、そのあいだ、"つなぐもの"に私は惹かれ続けてきた。 単に音符や技術や音感を教えるのではない、 もっと、音楽に直接触れるようなものを教えたい、と思っていた。 それをアーティスト、とか、芸術家とか呼ぶのは少しオコガマシイ気がする。 それに、実はそういう呼び名はどこか 高みだけを目指しているようだったり、オリジナリティを追求するようだったりで、自分のしたいところと咬み合ってこない。 ヨーゼフ・ボイスや日比野克彦の活動に共感するものが私の中にあって、 それは