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「もうすぐ焼き上がりますよ」、に救われる夜

「もうすぐ新しいのが焼き上がりますよ」———

癌になった夫・一樹のためにギフ(義父)と共に病院と家を往復するテツコ。もう良くなることはないと分かりつつも、もしかしたら、と希望を抱いて歩く夜の帰り道は、寒く、悲しい。

そんなとき、ポツンと灯るパン屋さんを見つけ中に入ると、「もうすぐ新しいのが焼き上がりますよ」と店員が優しく声をかける。

焼き立てのパンはまるで生きている猫のような温度で、寒空の下二人は交互にそれを抱きしめながら帰路についた———



「昨夜のカレー、明日のパン」という大好きな本の、大好きなシーンです。

このものがたりは、7年前に夫・一樹を亡くしたテツコと、今もまだ一緒に暮らしているギフ(義父)、テツコの恋人の岩井さんなど、周りの人との関わり合いのなかで、一樹の死やそれぞれが抱える問題を少しずつ受け入れ、向き合っていく様子を描いています。

みんな、どこかうまくいかないところがあって、不完全で。そこが、それぞれのキャラクターとなって愛おしくなります。たとえ、当人が引目に感じていたとしても。

なかでも、わたしがいちばん惹かれたのは、テツコとギフに「ムムム」と名付けられた隣人で、一樹の幼なじみです。


「ムムム」は、客室乗務員でしたが突然笑えなくなってしまい、かわりに困ったような、まさに「ムムム」という顔をするようになりました。そのせいで仕事を辞めるしかなくなって、テツコたちの家の隣にある実家に戻ってきました。

流星群の降る夜、ムムムは偶然ギフと再会します。

ギフは、死んだら星になるという考えを信じることはできないけれど、一樹が星になったと思えたらどれだけ楽だろう、とこぼします。彼女は彼もまた自分と同じように「悲しい」という気持ちをたしかに抱えていることを悟ります。

でも、彼女はそのとき彼を励ますことができなかった。なんと声をかければいいのか、どうやって背中をさすればいいのか分からなかった。そんな自分に小さな絶望を覚えました。

そのかわりに、客室乗務員の仲間に一樹の遺品を持ってフライトしてもらうようお願いしました。ギフと共にその飛行機を見上げて、「あそこから一樹は私たちのことを見ているんだ」と伝えたのです。

ギフとムムムは互いに「くたくたになるまで生きたい」と話し、ギフはムムムに「あそこ(空)から、ずっと見ててあげる」と言葉を贈りました。

ムムムはこの言葉にパワーをもらって、次の一歩となる就職活動を始めることになったのです。


もういちど笑えるようになったムムムのことをギフから聞いたテツコ。ギフは、ムムムが笑えたのは自分があげた言葉がきっかけかもしれない、と言います。テツコはその魔法の言葉をつ教えてもらうことはついにありませんでしたが…。

また別の日に、テツコとの会話でギフはこんなことを言いました。

「自分には、この人間関係しかないとか、この場所しかないとか、この仕事しかないとかそう思い込んでしまったら、たとえ、ひどい目に合わされても、そこから逃げるという発想を持てない。呪いにかけられたような物だな。逃げられないようにする呪文があるのなら、それを解き放つ呪文も、この世には同じ数だけあると思うんだけどねえ」

引用:「昨夜のカレー、明日のパン」

この言葉を聞いて、テツコはムムムのことや、そのほかのできごとも重なって、冒頭の「もうすぐ新しいのが焼き上がりますよ」という言葉を思い出し、あの夜みたいだね、とギフに返します。

このギフの言葉がじわっとわたしの心の中に染み込んで、ああ、そうだよなあと思いました。

そのとき思い出していたのが、数年前のできごと。仕事で、毎日のように上司から指摘を受けていました。

はじめは成果物に対する指摘でしたが、だんだんエスカレートしてこの仕事に向いていない、私生活から性格を見直したほうがいい、というような内容になっていきました。

こんな言葉をもらうのは、私ができていないせいだ、もっと頑張らなくては!と一生懸命やっていましたが、何か月も続くと体も心もダメになってしまいました。

電車に乗ると腹痛と冷や汗が襲ってきて会社に行けなかったり、会社に行けても耳鳴りと動悸が止まらなくなったりと、絵に描いたように体調が不安定になりました。

これまで会社も学校も休んだことがほとんどなかったので、いつのまに心も体も弱くなったんだ、と情けなくなりました。さらに毎日浴びせられる心ない言葉で、私のいいところってどこだったっけ、とほんとうに分からなくなってしまいました。

それでもまだ、頑張らなきゃと仕事に行ってはすり減っていく私に、ある日恋人がこんな言葉をくれました。

「自分のことをもっと大事にしてほしい。俺にとって大切なあなたを、あなた自身が大事にしてくれないってことは、俺の大切なものが大事にされていないことになって、すごく悲しいよ」

泣いていたのでびっくりしました。自分のことも大事にできずに、彼にも悲しい顔をさせて、何のためにこんなに一生懸命頑張っていたのだろう?

それまでも友達のアドバイスで別のプロジェクトに移ることは何度も考えましたが、最後までやりきらなきゃ、と思ったり勇気が出なかったりで動けずにいました。

でも、彼のくれたこの言葉や、友達が逃げたっていいよ、と背中を押してくれたことが心のお守りのようになって、やっと行動に移せたのです。

ムムムに惹かれたのは、私なんて何もできない、と思い込んでいつのまにか自分で自分に呪いをかけてしまっていたところが似ていたからかもしれません。

ギフの言うように、呪いにかかっていると、そこから逃げ出すという発想ができなくなってしまうもの。でも、必ずその呪いを解く言葉がどこかにあるはずなんです。

だとしたら私は、恋人や友達が私にしてくれたように、誰かの呪いを解いてあげたい。

ムムムを立ち直らせたギフの言葉みたいなものかもしれないし、テツコの心を温めた、パン屋さんの何気ないひとことみたいなものかもしれない。何がいつ、どう作用するか分からないから、できるだけいつも、優しい言葉をつかいたい。

それに、これから先、もし呪いをかけられたとしてもへっちゃらなくらい、心の盾になるような言葉を贈りたい。

大事に思っているよ、あなたのこういうところが素敵だよ。言って減るようなものじゃないから、たくさん贈りたい。たとえそばにいられなくても、守ってあげられるように。

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