二次的外傷ストレスについて考える
お久しぶりです、Aさんです。
どんなことをやらかしても任意入院を勝ち取ってきたAさんですが、なんと先月まさかの措置入院を言い渡され、先日やっとシャバに出てきました。
3ヶ月はぶち込まれる、という治療方針でしたが、最短で出てきてやりました。
この記事は入院するだいぶ前に書いたものなのでなんかのほほんとしています。
とりあえず措置入院というものは恐ろしいものでした。
措置入院について記事を書きたいところですが、個人情報がダダ漏れになるので、書くのは断念するか有料記事にするか、なんかとりあえず考えています。
とりあえず、隔離室で剥き出しの便器を見ながら、冷めた味噌汁をすすったとき、「そろそろ人間やめるかなっ!」と思いました。
それでは以下、措置入院を知らない世界線のAさんが書き溜めて投稿するタイミングを見失っていた文章です。
こんにちは、Aさんです。
毎度のこと病院の予約日に外出する元気がなく、先延ばしにして、服用必須の薬を切らしてしまいます。
Aさんの通うメンタルクリニックは車だと10分ほどで着くのですが、電車だと30分かかる、自宅から絶妙に不便な位置にあります。直線距離だと近いのですが、電車で行こうとすると一度反対方向へ行かなければならないので少し厄介です。
いつも夫に車で連れて行ってもらっていますが、自力で行かなければならない時は、「まあ、明日行けばいいか」を繰り返し、薬がなくなり離脱症状で死にそうになります。
一人で生活していた時のことを思い返すと、ものすごく不思議な気持ちになります。なぜ一人で生活できていたのかよく分かりません。仕事をして生活を賄い、決まった日にゴミを出し、毎日自分のためにご飯を作り、家を清潔に保ち、自殺未遂を繰り返す。あ、全然ちゃんとしてませんね。元々危うい、生活力のない人間でした。
更新を忘れて失効してしまったのですが、Aさんは一応車の免許を持っていました。地元で一人暮らししていた時は病院まで車を走らせていました。
車の運転ができる、と結婚後引っ越してからできた友人に言うと、みな一様に驚きます。こんなアッパラパーな人間が道路標識など読めるのか?!交通ルールを理解できているのか?!と考えるのでしょう。Aさんも、今となってはなぜ普通に車を運転できていたのかよく分かりません。
しかし、助手席に乗ったことのある友人は「え?!運転うまいんだね?!」と言ってくれました。運転に少しでも不安を抱く人間の助手席に乗っちゃダメよ、と思いつつ嬉しくもありました。免許失効しているので、上手いも下手も今は関係ないのですがね。
さて、いつものように前置きが長くなりました。
今回は「二次的外傷ストレス」について、Aさんの気持ちを述べていこうと思います。
サムネイルを見て頂ければ分かりますが、今回はシリアスな内容になっています。
今回も本題からは一人称は「Aさん」ではなく、「私」となっています。
以下、虐待や性暴力の描写があります。マイナスな内容に引っ張られやすい方、トラウマがある方、ハッピーしか接種したくない方は読むのをお薦めしません。
被害者のパートナーもまた二次的な被害者である。
夫と出会い交際に至った時、私は自分が過去に父親から性虐待を受けていたことを絶対に言わない、と心に決めていた。それとなく父親と折り合いが悪い、ということは話していたが、それ以上踏み込んだ内容を話すことはしなかった。
父親から虐待にあっていたのだと病院で相談できるようになった後から夫と出会う前。恋愛関係に至った数名の人に性虐待についてカミングアウトしたが、どの恋愛も悲惨な終わり方だった。
どんなに言葉を尽くしても苦しみを理解されない。露骨に私が体験したことについて目を背けられる。酷い時は「このクソメンヘラ、いい加減にしろ」と言い放たれたこともあった。
思い返してみれば、自分に起きた悲惨な出来事を相手へどうにか理解してもらおうと躍起になっていた。相手にとってみれば、ぐちゃぐちゃの傷口を見せびらかされ、グロテスクな過去を押し付けられるなど、苦痛でしかなかっただろう。
そうやって相手の気持ちをないがしろにして、相手も一緒に苦しみで窒息させようとしていた。なんて愚かで身勝手な行動だろうか。離れていかれるのは当然のことだ。
今度こそは相手を傷つけない恋愛をしたいと思い、夫には明るい一面だけを見せようと努めた。
付き合って一ヶ月ほど経ち、夫とへべれけになるまで酒を飲んだ時のことだ。私は記憶が曖昧になるくらいに酔っ払い、夫と家でじゃれあっていた。ケラケラと笑いながら、ふと涙が溢れ出て止まらなくなっていた。頬に当たる自分の髪の毛がやたらと煙草の臭いがして、目の前にいる夫が誰なのか分からなくなっていた。髪に染みついた煙草の臭いが父親にされた仕打ちを思い出させる。夫にすがりつき泣きながら自分に起きた出来事を話していた。ダメだ、ダメだ、と思っているのに、やめられない。
呑んだくれて幸せな瞬間。そう長くは続かないだろうこの時間をできるだけ味わいたい。その一方でできるだけ早く今すぐにでも手放したい、という矛盾した気持ちがあった。
気持ち悪いでしょう、別れたいでしょう、捨ててもいいよ。そんな気持ちが前へ前へ出て、自分がいかに汚く惨めで女性として価値がないのかを強く主張した。
今度こそ好きになった人とうまくいきたい。今度もダメなんだから自分の手で早く壊してしまいたい。アンビバレンスな感情が制御できなくなり、訳のわからないことを口走っていた。
夫は「とにかく眠ろう」とひたすら宥めてくれ、私が服用している眠剤を呑ませてくれた。
次の日の朝、いつもと変わらぬ態度で接してくれた夫に、私は腹が立っていた。何も聞かなかったことにするつもりなのか。酒でありもしないことを口走ったと思っているのか。どうせ気持ち悪いと思っていて別れるつもりなら、今言うべきではないか。
それまでの恋愛と同じように、被害者意識を膨らませ、相手へいたずらにその気持ちをぶつけることで愛情をはかろうとしていた。
夫と結婚するまでの間、私は何度も「どうせうまくいかない、別れるべきだ」と試し行動を繰り返した。その度に夫は「またバッド入っちゃったー?」と呑気に対応したり、「本当に別れたいならその気持ちを尊重するけど、自分は別れたくない」と真摯に向き合ったりしてくれた。
夫は私がどんなに「バッド」に入っても、自分のペースを乱さなかった。溺れる人間を助けるために、自分も濁流に飛び込む人ではないのだ。河岸で安全ロープを垂らしながら、「俺泳げないからこれにつかまって戻っておいでー」と適当な救命措置をしてくれた。
溺れることにしか意味を見出せなかった人間にとって、目の前に垂らされたロープがどれだけ安心感を与えてくれただろうか。ロープを辿ると、その先に笑顔で待っていてくれる人がいる。それがどれだけ大きな意味を持っていることか。
気がついたら、私は自らロープに手を伸ばし、河岸に夫と二人で立っていた。私は、いや、私たちは、そうやって一つの大きな困難を乗り越えたのだ。
しかし、夫の本当の気持ちはどうなのだろうか。
私は「被害者」として人生の大半を生きてきた。夫に完璧に理解はされなくても、どんな気持ちで生きているか少しでも知って欲しいと思っていた。
性虐待にあった人が書いた書籍を渡して、読んでみてほしいと頼んだが、夫はその本を今まで手に取ったことはない。
色々なことがきっかけで喧嘩がヒートアップした時、なぜ買った本を読んでくれないのかと夫を責めた。夫はいつになく感情的に「これ以上まだ求めるのか」と私の要望をはっきりと否定した。
なぜだろう。もしも、私が夫の立場だったら、色々な書籍を読みあさって、どれだけ辛いことなのか知ろうとするのに。
そう考えて、色々調べているうちに、「二次的外傷ストレス」という言葉を知った。「二次受傷」や「代理受傷」とも呼ばれる。
これはトラウマを追った人間を精神的に支える人が、そのトラウマを自分の傷のように引き受けてしまう事象だ。
性犯罪や性被害にあったパートナーを支える人はどんな気持ちなのだろうか?とふと考えて、検索してみたところ、二次的外傷ストレスを抱える男性たちのインタビュー記事が出てきた。
ああ、という言葉しか出てこなかった。どうして私は夫にこのような仕打ちができたのか。なぜ想像できなかったのか。
パートナーが酷いトラウマを抱えるに至ったエピソードなんて。パートナーがどんな目にあったのかなんて。愛している人がどんな風に傷つけられたかなんて、見たくもない、直視できるはずないではないか。
安全ロープを持って河岸へ登るのを支えてくれた夫の手のひらにかかる重みと痛みを、私は少しでも想像したことがあっただろうか。
被害者という立場で夫に助けを求め、夫を次なる被害者にしていたことになぜ気づけなかったのだろう。
これまで吐き出したマイナスの感情が数珠繋ぎになって、夫を縛りつけていたことに気づいた。
私はこれからどうすればいいのだろう。苦しい時に苦しいと言ってもいいのだろうか。怖い夢を見た、と前みたいに夫に泣きついてもいいのだろうか。父親が憎い、愛されたかった、と吐露したくなる気持ちをどう封印したらよいだろうか。
病院へ通う回数を増やせばいい。メンタルクリニックだけでなく、カウンセリングにも通うべきだ。積極的なトラウマ治療にもチャレンジすればいい。
愛している人のために自分が「加害者」にならない選択をすればいいのだ。だけど、だったら、愛している人を「被害者」にしてしまった今、私が取れる行動はひとつではないだろうか。夫から離れることだ。
そんな考えが頭をよぎる。逃れられない、いつまでも追い詰めてくる、「離れるべきだ」という呪い。
耐えきれない存在の。
いつも自分のトラウマ越しに男性を見てきた。
その人がいったいどんな人間なのか。そう考える前に、自分にとって「脅威」ではないか。傷めつける人ではないか。
相手が繕っている「何か」を私はいつも見抜くことができない。「こうあればいい」という何枚にも重ねたフィルターを通してでしか、相手を見る勇気がないから。
そうやって自分の幻想を相手へ勝手に押し付けて、少しでも差異があると「また、裏切られたのか」と失望する。
相手へ望むほど、自分の気持ちを錘のようにのしかけて重さをかければかけるほど、相手は私の存在を遠ざけていった。
夫は私の重さを一旦引き受けてから、「ちょっと腕が疲れたからこの錘、こっちに置くね」と言える人だ。
「その重い荷物はそろそろ資源ごみに出してもいいんじゃない?」と月曜日の朝に軽やかに笑顔を浮かべてくれる人だ。
私が存在することを認めてくれる、証明してくれる人なのだ。
私がなすべきことはなんだろうか。
私が溺れるたびに救命ロープを手のひらに食い込ませ、私の全体重を引き受けてくれる彼の表情をちゃんと見たことがあっただろうか。
溺れても一人で泳いで夫が待っていてくれる河岸に辿り着きたい。
彼の手のひらに刻まれた傷跡をこれ以上増やさないように。
濁流をクロールで泳ぎ切るような強さを私は持ちたいのだ。いや、待とうと思う。