【読書感想文】「怠惰」なんて存在しない
読んだ本: 「怠惰」なんて存在しない デヴォン・プライス
冒頭を読んで、「この本を書いたの、私だったかな?」と開いた本を思わず閉じてしまった。(違う)
私はちょっと前まで本当にこんな感覚で生きてたので、読みながら「わかるー」とうなずきつづけた。
今は、余白があることも意義があることなんだと思っている。むしろ余白こそ人生くらい思っている。
でもちょっと前は、生産性・効率性・タイパ・コスパ。そんなことばかり考えていた。
「精神的に向上心のないやつはバカだ」。これは夏目漱石の「こころ」の一節だ。この言葉は主人公の友人Kを死に追いやっていく鋭い刃物だ。
私は、この刃を自分にも、そして他人にも向けていた。
仕事と育児の隙間時間で英語の勉強をし、仕事の役に立ちそうな本を読み、常に何か自分を向上させることに時間を費やさないことは罪ですらあると思っていた。その努力をしない人を心の中で断罪していた。自分は努力したのだから、清く正しいのだと思っていた。
「怠惰は罪である」。この考え方にはキリスト教とくにピューリタンの思想が色濃く出ていると本書は述べている。
これは私が勝手に思っていることだけど、イエス自身は「怠惰は罪である」とは言ってないはず。「幼子のようでなければ天の御国に入ることはできない」とは言ってたけど。
幼子、つまり子どもって生産性とか効率性という言葉から、もっともかけ離れている存在だ。彼らの動きには無駄しかない。要らんことばかりする。まっすぐ歩かない。ちょっとでも高いところがあれば登る。かと思えば、飽きもせずずっと虫をながめてたりする。
イエスはこういう余白があることを大切なこととして見てたんじゃないかなと思うのだ。
とはいえまあ、教祖が何を考えていようが、後の世の信徒達がどう行動してどんな文化を形成するのかは別のはなしだ。
アメリカは格差社会と言われて、トランプが支持されているのもこの格差に怨嗟が渦巻いているかららしい。よい地域に生まれ、資産があって、文化資本もあって、体力・知力もあり、コネもあり、良い大学に入り、良い仕事を持っている一部の人たちと、それらのうちの何かを持てなかった人たち。
前者の恵まれている人たちがこの「怠惰」を憎み、生産性・効率性を追求していく。アメリカのスーパーエリートにマッチョイズムというかタフネスが掛けあわされれば、もう後者は太刀打ちできないだろうなあ。格差は広がる一方だ。
なので、社会・文化全体でこの「怠惰」を見直すようになったら、格差は縮まらないだろうか。うーん、さらに少数精鋭のマッチョ達が突き抜ける気もするが...
著者は「ゲーミフィケーション」のことも、批判的に語っている。ゲーミフィケーションとは、「ゲームをデザインする際の手法をサービスやシステム構築、課題解決などに利用すること(大辞林)」だ。本の中ではDuolingoやコーディング練習サイトなどが紹介されている。
私も本を選ぶときでさえ、役に立つものを選び、市場価値をあげるために読書時間を使っていた。そしてそれ以外のものは「ノイズ」として切り捨てていた。感情を揺らさないものだけを選択していた。感情がフラット出ないと仕事に影響が出てしまうからだ。「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」で三宅さんが指摘している内容とも被ってくる。
そして個人的に一番同意しちゃったのが、ここである。
「仕事の生産性を上げるために、従業員の余暇を企業が支援」的な見出しを最近新聞で見た時に、俺らの余暇は俺らのためにあるのであって、それすらも会社の生産性に結びつけてくれるなよと、心底げんなりしたのだよなー。
そうじゃないんだ、そうじゃないんだよ-。うまく言えないけど、そうじゃないんだ!私がほしいのは、生産性を上げるための頭の良い生産的な余暇じゃなくて、頭アホになって海に飛び込んでぷかぷかするとか、一日中泥団子を捏ねるとかそういう、「どうでもいい、将来のためになりそうにない」そういうやつなんだよー。
閑話休題
「常に努力して仕事の生産性を上げなくてはいけない」という思想に染まったのは社会人になったころに流行っていたビジネス書の影響が大きいのではないかと思う。特に勝間和代さんの本「効率が10倍アップする新・知的生産術:自分をグーグル化する方法」は私も読んだし、ばっちり影響も受けた。「知的生産」という言葉を始めて知ったのも、彼女の本からだ。(いや、なんか今このタイトルを改めて見て、なんかぞっとしてしまった。)
今日の朝、日経Womanの記事で彼女のコラムを見かけた。そして彼女はこの本「怠惰なんて存在しない」を読者に勧めていたのだ。なんか意外でびっくりしてしまった。人は変わるし時代も変わるのだなあ。