スマホと距離を置いてみた休日
秋晴れが心地よい休日の朝。一年中、このくらいの気候だとなんて幸せなんだろうって思ってしまうくらい最高の日。
この日は、めったにない私の1日中フリーな休日。夫は地域活動、娘は部活。
私と犬たちでのんびり過ごせる天気の良い休日。神様がくれたご褒美ですかってくらい特別な日だ。
そしてこの日は、スマホを出来る限り持たない休日。私は家の中でいつもスマホを持ち歩いては常に何かをチェックしていたのだが「スマホ断ち 30日でスマホ依存から抜け出す方法」という本を読んで、スマホを断たなくちゃという焦燥に駆られたのだ。
トイレに行くときでもスマホを手放せなかった私は、ずっとメールやXをチェックしていた。活字中毒だから仕方ないのよホホホと半ば得意げであったほどだ。
しかし先述した本の中にこうあった。「私たちの脳は情報収集に対して、本能的な執着を示す」。新しい情報が飛び込んでくると脳は快感を得るだそうだ。あれ、私ただの情報ゲット快楽ジャンキーじゃん。初めてiPhoneを手にしてから、かれこれ10年以上、私はスマホを手放せなかった。
スマホはそういう風に出来ているのだ。と、この本は言う。人を中毒にさせるために頭の良い大人達が知恵をしぼっているんだと。
うん、知っている。だって私、UIデザイナー(頭は良くないが…)だもの。どうすればユーザーの注意を惹けるか、それを考えるお仕事をしているんだもの。見てみてーって関心を惹くためにバナー作ったり、UIにアイコン付けたり、なんならユーザーの操作に対してちょっとしたアニメーションを加えたり。こうすれば気持ちいいんでしょ?って。
べつに人をジャンキーにしちゃえと思ってやってるわけじゃない。ユーザーが使いやすいシステムを作れば、ユーザーもハッピー、ビジネスもハッピー、みんなハッピー。使いやすい、使ってて気持ちいいは正義だと思ってた。このあたりのことに関しては、まだ考えがまとまってない。まだしばらく考え続けると思う。
それとは別に一般スマホ使用者としての私は、確実に情報ジャンキーになっていた。そしてここ最近、何か脳が思いどおりに動かない違和感を覚えていたのだ。
7章・8章に書かれていることは、うなづきながら読んだ。ちょっと泣きそうだった。
「作業記憶(=短期記憶/スマホのあらゆる情報によって圧倒されがち)がパンク状態で認知負荷が高くなりすぎると、余力がないせいで新しい情報や経験を既存のスキーマと結びつけることができない。これでは記憶が長く残る可能性は低いうえ、脳内のスキーマも次第に弱体化し、ひらめきや着想を得る機会も減少する。つまり私たちは深く考える力も失うことになるのだ」(8章)
ひぃ!!怖すぎるが、本当にここ最近これを実感していたのだ。
情報がオーバーフローしている。記憶ができない。人の話が頭からこぼれ落ちていく。理解ができない。文章が読めない。全体の構造がつかめない。考えられない。
私はどちらかといえば頭脳労働者。その頭脳がうまく働かなくなるということは恐ろしいことだ。
その本を読み終わってしばらくしたある日、打ち合わせ中にメモを取り、相手の言ったことを復唱して確認した次の瞬間に、そこまでやっても尚、頭の中からその内容が蒸発した時にこれは本格的にやばいぞと、私はスマホから距離を置くことを決意した。
それまでもデジタルデトックスをなんとなく心がけてはいたものの、Xは止められないし、休日に用も無いのに会社のSlackをチェックし続けていた。特に誰から連絡が来るわけでも無いメールを何回もチェックしてしまったし、惰性でLINEスタンプの新作をチェックしたりしていた。
そんなこんなで本腰を入れてスマホを見えないところに放置してみた。SNSアプリはnote含めてすべて削除した。スマホが視界に入らないことで、「見たい」という気持ちがわき上がらなくなった。条件反射でスマホを手に取っていたことがわかる。
スマホから距離をおいてみて一番驚いたことは、1日の可処分時間が長いこと。
手帳タイム・朝ご飯・新聞の朝刊読む・掃除機・床の水拭き・リビングの片付け・洗面所の片付け・庭の掃除・夕飯のスープ作り・大河ドラマ視聴をやってもまだ朝の11時だった。
一つ一つのことに集中しているからタスクは捗る。今までだったら、これらのタスクの合間合間に20~30分のSNS時間が挟まれていただろう。1日のスクリーンタイムが軽く6時間(やばい)とかあったのだから、その時間がまるっと空いたのだ。
もう一つ発見したことは、小さな事に対してすごく新鮮に喜びを感じるようになったこと。シンクが綺麗になった!床が綺麗になった!散歩楽しい!そんなことがこんなにうれしい?って我ながら驚いてしまった。小さな達成がうれしいから作業も捗るんだろう。今まではSNSの快楽がそれらを上回ってしまって、不感症になってたんだろうな。
スマホから得られる情報って本能的に人間が大好きなものだから、その強い刺激に慣れてしまうとリアルの生活がつまらなく感じてしまうのだろう。濃い味の料理から薄味にシフトしていくと、素材それぞれの味がよく分かるようになるということと似ている。
今まではお散歩の時もPodcastやAudibleを聴きながらじゃないと散歩できなかった(情報の刺激が必要だった)のだけれど、あえてイヤホンを置いて外に出てみた。色んな音や匂いに触れていると、薄味の滋味がジワジワと染みてくるようだ。ふろふき大根を食べてるときのような。
そんなことを感じた秋の休日だった。
しばらくはこのスマホと距離を置くという試みを続けてみようと思っている。