【短編小説】ウィークエンド・カミング
「鮭だ鮭、鮭買ってこい」
箸を掲げ、赤ら顔の親父がわめいた。
「だいぶ酔ってるじゃねえか。今日はもうやめとけよ」
「うるせえ、とっとと行かねえとこうだぞ」
いきり立った親父がずんと近寄ってきて、こぶしをぶん回した。痛え。胸が痛え。胸の奥まで響きやがる。なんて力強い歌声なんだ。
俺は家の門を蹴っ飛ばして魚屋に向かった。やってられねえ。
近頃は担任教師もうっとうしい。あの閃光。禿頭め。
「黄身だけだよ、三年の夏にもなって進路調査票を出していないのは」
他の生徒もいる廊下で、ねちっこく言いやがる。黄身、つまり俺を孵化に失敗した未来のない卵だと揶揄してくるのだ。
進学か就職か――これは重大な洗濯だ。今後俺という人間をどのように洗練するか、そう簡単に決められるもんじゃない。
どいつもこいつも勝手言いやがって。俺はどうも人付き合いってのが苦手だ。相手が何を考えてるかわからねえ。そのくせ振り回されるのはこっちときた。俺が抱える弱点といえばこれだ。
あーーイライラする。
世界が歪んでるのか? 俺が歪んでるのか?
気分を浄化するため、俺は懐から手神を取り出した。それはまるで天上から齎された奇跡だった。あの聖女が俺に宛てて書いているとは。
来栖マリア。同じ学年の女子だ。
一目で眠りを忘れるほど美しい。淑やかで慈悲深く、目が合えば陽気も根暗も分け隔てなく微笑みをくれる。俺のようなやさぐれにもだ。はっきり言って俺の心は彼女に奪われていた。
ダメ元で出したラブレターに返事があったのは、人生最大の僥倖だった。
「素敵なお言葉をありがとう。あなたのことは知っていました。私が廊下を歩く際……沢山の殿方の視線が向けられますが、あなたの視線がもっとも凄烈でした」
最初にここまで読んだ時、糾弾されるかと思ってヒヤヒヤした。
「私だって年頃ですから、何も感じないわけではありません。ですが、互いを知らずして事を急くほど、愚かではないつもりです。つきましては、一度ゆっくり語り合いませんか?」
場所と日時の指定があった。夏休み初日、つまり明日だ。つまりデートだ!
帰宅した俺はすぐに執心した。健康維持のため眠ることに拘った。
待ち合わせ場所は、隣町にある丘の頂上に立つ巨木の下だ。ベンチもあって、静かに語らうのに最適と言える。
しかし家を出てすぐ、道が通れなくなっていた。そこには「麹中」との看板がある。麹菌は雑菌に弱いので、通行人から遠ざけることで清潔を保つ目的だろう。
仕方なく回り道をしようとした時だ。
いきなり後頭部に強い衝撃を受け、俺は前につんのめった。すぐさま振り向くとマスカレイドマスクをした男が二人身構えていて、手には木の坊を持っている。
ムカっ腹が立って、俺は厳しく口撃した。ごつごつした男児の像を用いて不意に人の頭を殴りつけたことを口汚く罵った。警察にも電話した。
やがて男たちは詰みの意識に耐えかね、泡を吹いて倒れた。と同時、横の道から同じマスクの男が投げ込まれてきた。
「そら、こいつもだろう」
やってきたのはウリオという大柄の筋肉ダルマだ。同い年で他所の高校の悪童である。
「お前も襲われたのか?」
「いや、怪しいのでとっちめていたら、そこでお前が殴られていたから見物していたのだ」
「悪趣味め」
がははと笑いやがる。こいつは友人というわけではなく、過去に大献花したこともある。にも関わらず普通に話しかけてくるので、よく分からん奴だ。
気を取り直し、今転がってきた男のマスクを取ると、クラスのカマイだった。来栖マリアの熱心な信奉者だ。とすると他の二人もか。
「読めたぞ。こいつら狂信者は俺のデートを阻みに来たんだ」
「ふうん。なあ、小遣い稼ぎについてっていいか?」
見るとウリオは彼らの財布から鐘をくすねていた。こいつの盗み癖には呆れたもんだ。こっちは地道にバイトしてるってのに。
だが、戦力になるのは確かだ。
「好きにしろ。ただ邪魔はするなよ」
場所を問わず襲われた。逃げ込んだ先の血痕式場では、疲労宴の余興で倒れるまで踊らせたり、時にはこちらから仕掛け、近くを流れる皮に突き落としたり、俺は必死に凌いでいたが、ウリオは剛腕に物を言わせ、相手をひねりつぶす片手間にスマホをいじる余裕すらあった。
ところが何波目かの敵を倒した後、真面目な顔つきで奴が訊ねてきた。
「この女は誰だ?」
その手には信者が持っていたであろう彼女の写真があった。
「さっき言ってた来栖マリアだ。美しいだろう。崇拝するのも頷けるってもんだ」
ウリオは俺の軽口には応えず「そうか」とだけ言って歩きはじめた。なんだこいつ。
まあいい、せいぜい敵を減らしてもらうとしよう。
そう思ったが、そこから敵の増援がぴたりと止んだ。ずいぶん倒してきたから弾切れなのかもしれん。これを好機と、俺はかなり歩を進めた。
そうして、とうとう後は駅前通りを一つ抜けるのみとなった。ぎらぎらした夏の日の下に多くの人が行き交っているほか、彼方に丘の樹が見える。俺は辺りを見回してウリオに言った。
「もう敵は来ないようだから、ここまででいいぞ」
俯いていたウリオはスマホを操作し、「いや」と顔を上げた。どこか嬉しそうに見える。
「どうかしたか?」
「……なあサタ、悪いんだけどよ」
ウリオが手を挙げると、そこかしこの建物から狂信者が飛び出してきた。
「あの女欲しくなっちまってなあ」
「ふざっ」
言い切らないうちに俺は逃げた。わらわらと信者どもが追ってくる。
妙に襲われると思ったら、要はウリオが呼び寄せていたのだ。奴らから奪ったスマホでだ。最初は鐘を得るために呼んでいたんだろう。それが彼女の写真を見て気が変わった。くっそ、これだから人の気持ちなんてのは!
ざっと見て三十人はいそうだ。どんどん丘が遠ざかっていく。どうするどうする。
突然、背中に何かがぶつかって躓いた。振り返ると信者が一人倒れていて、遠くでウリオが笑っている。あんの野郎、人間を投げるんじゃねえ。
体勢が崩れた隙に一気に距離を詰められた。数メートルのところまで群勢が迫っている。全身からぶわっと汗が噴き出た。
往生際悪く、がむしゃらに進んだ俺の目に二つの光輝が映った。しめた!
俺は前方を歩いていた担任教師を呼ぶや否や、身を伏せた。
「カジ!」
担任が怪訝そうにこちらを向く。すると俺の後方へ強烈な閃光が放たれた。野ざらしの頭は夏の日差しを反射するのだ。狙い通り禿頭席にいた彼らは総崩れになった。
俺はスマホのカメラで武器を持った連中を撮ると、落ちていた木の坊を拾ってそこのバイト先へ向かった。煌びやかな栄華館だ。
「すんません今日入ります!」
迅速に着替えを済ませると、一瞬仕事をして先輩に告げた。
「求刑お先です!」
俺はスタッフルームの奥にある暗幕の中へ飛び込んだ。そこにはこじんまりとした法廷があり、裁判官や書記官が座っている。俺が検察官席に立つと、いないのは被告だけになった。
証拠として坊とスマホの画像を見せ、俺は彼らの罪を切々と訴えた。被告は欠席しており、なおかつ事前に答弁書も提出していない。つまりこの場合は民事訴訟法第百五十九条一項「相手方の主張した事実を争うことを明らかにしない場合」に該当し、自白とみなされる。
「処す」
裁判官が決を唱えると、傍聴席含め全員が解散した。俺も着替えを済ませてそっと栄華館を出ると、通りは何事もなかったかのように人々が歩いていた。
奴らの行方など知るものか。俺は丘へと駆けた。
「お待たせしてしまいましたか」
光を帯びたその姿を見るなり、俺は取りつかれた。彼女の方もまた、俺の瞳の奥の炎に魅せられていた。
しばらく互いを見つめた。それから語り合った。
俺はこれほど気の合う人に初めて会った。それは彼女も同じようだった。もはや運命だ。
長らく話をするうち、西日が傾いてきた。
「サタくんは、どうしてアルバイトをしてらっしゃるんですか」
「進路は未定だけど、将来のために貯めてるんです」
「そうなんですね。私は夢があって、装飾店なんですが」
「良いですね。俺は応援しますよ」
「ありがとう。それで実は自作もしていて」
と言って彼女はカバンからロザリオを取りだした。
チェーンの先に銀の十字架が繋いであり、羽根らしき装飾が施されている。ただ、つぶさに観察すれば彫りが甘く歪みもある。正直に伝えるのは憚られた。
「よく出来ていると思います」
俺が答えると、面映い様子で彼女が言った。
「これ、買っていただけませんか?」
「えっ」
買う……買う?
「お店を出した時のために、今からでも実践あるのみだと思いまして」
「ああ、なるほど……ええと、その、おいくらで」
「八万円です」
「はっ、えっ」
あまりのことで返事に詰まる。
「先ほど応援すると言ってくださいましたよね。あれは嘘ですか」
「そんなことは! ただその、なんと言いますか」
「将来のためにアルバイトをしていると仰ってましたね。私との将来は考えていないということでしょうか」
「買います」
「わあ、ありがとう。うん、確かに八万円。お客さん第一号です」
「はい、あの」
「でも、もう日が暮れますね。ごめんなさい、また学校で」
「あっ、送るよ」
「いえ、大丈夫。ではまた」
「じゃあはい、また……」
ベンチにしばらく座っていた俺は、夜になって家に帰った。
しんとした自分の部屋に入り、テレビをつけると、鏡の前でロザリオを首にかけた。
数分眺め回し、首から外して机に置いた。それから窓を開け、懐にあった手神を出すと、ライターで火をつけた。燃えカスが風に砕かれ、窓の外へ流れていく。
神は死んだ。
突如として月と太陽は消え失せ、空気が凍てついた。
ニュースでは転機予報をやっている。
「……続いて終末の空模様です。空一面を分厚い蜘蛛が覆い、ところにより豹が降るでしょう」
好転だな、と俺は思った。
俺は、俺の心を取り戻した。
心は何物にも代えがたい。俺の心は俺だけのものだ。