「リベラル」と「左翼」と「反日」の境界線
この論点はすでに散々語りつくされてきた感もあるが、未だにこういう議論が出てくるということは、今までの議論が世間に浸透していないということだと思う。
まず単純な事実だけ言うと、日本で「リベラル」という言葉が多様されるようになったのは、明らかに1990年代以降だ。つまり、ベルリンの壁が壊され、ソ連が滅亡し、共産主義・社会主義の敗北が明らかになったために、社会党や共産党が「革新」を自称することが恥ずかしいことになった。そこでフランスや北欧などの社会民主主義勢力に目を付け、我々はソ連型の社会主義ではなく北欧型の社会民主主義を目指す勢力だと主張するようになった。それが、社会党から社民党への党名変更の動機にもなっているが、しかしそれでは結局ただ政党名を変えただけじゃないか、という批判から逃れたい勢力がこぞって離党し、鳩山元首相らの下に合流して生まれたのが民主党であった。要するに、彼らが「リベラル」を自称するようになったのは、単に古くなった看板を掛け変えることが目的であって、中身が変わったわけではない。もちろん、例えば共産党がかつては同性愛に否定的だったのが現在ではLGBT擁護を推進しているような、個別の政策レベルでの変化はあるが、彼らの、結果平等主義、全体主義的傾向が変わったわけではない。だから彼らは、表向きは自由主義、民主主義、多様性主義を謡いながら、実際には、結果平等主義、悪平等主義をごり押ししてくる。
そもそも、ジョンレノンのイマジン的な「国境もない、宗教もない」社会とは、高度にネオリベラル的な、というよりもリバタリアン的な社会だ。想像してごらん、国や宗教がないなら誰が再分配をするんだ?そもそも、国や宗教というのは、個人の欲望を抑制し、共同体に属する人たち全ての腹を満たすためのシステムだった。現在では政教分離が進んでいるため、宗教にそのような役割があるとは考えられないかもしれないが、少なくとも昔の宗教はそういうものであった。いや現在でも、本当かどうかは知らないが、創価学会や共産党に入っていると国の補助が受けやすいと言われている。本当だとすれば、やはり現代においても宗教は再分配のためのシステムなのだろう。共産主義が宗教だと言われるのもこのあたりが理由の1つになっていると思う。
したがって、共同体に属する人とそうでない人の区別は割と厳格に行われていた。そうでなければ、共同体に属する者の義務を果たさないまま、共同体からの援助だけをタダでもらおうとする人が出てくるからだ。
だから、多様性という概念と、福祉国家という概念は、そもそも水と油の関係にある。EUが移民に乗っ取られそうになって慌てて移民を制限し始めたのを見れば一目瞭然だろう。しかし、多様性という看板が間違っていたと認めたくない連中が、今度はジェンダー平等とかLGBT擁護とかを言い始めたわけだ。要は同じ共同体の中でのルール変更なら、共同体を壊すことなく福祉と多様性を両立させられるだろう、という試みだと思う。
だが、この試みもおそらく失敗に終わる。結局のところ女性が子供を産まなければ共同体を維持しつづけることはできないからだ。ちなみに私は単純に「男が働いて女が家庭を守る」というジェンダーロールが正しい、という立場は採らない。なぜなら歴史的に見て「女性は家庭」の時代はそんなに長くなく、むしろ江戸時代までは女性も働くことが当たり前だったし、戦中から戦後の混乱期にかけても労働者不足から女性が労働に駆り出されることは普通だった。むしろ「男が働いて女が家庭」という価値観は、女性の上昇婚志向を強化するので、少子化に拍車をかけるのではないかと思っている。
だが、いくらでも代わりがいる労働者と違って、管理職ともなると、妊娠したから休みます、子育てがあるから休みます、というわけにもいかない。百歩譲って子育ては夫や姑、あるいはベビーシッターらに委ねることはできても、出産はそういうわけにはいかない。代理母?私はそこまで(悪い意味で)リベラルになれないし、代理母にはまた別の問題もある。
それなのに、ジェンダー平等主義者は、管理職は女性を増やせと言うくせに、女性の労働者(特に肉体労働者)を増やせとは言わない。これは分かりやすいダブルスタンダードというだけではなく、そもそも男女の生理にも反している。
もちろん、女性だからという理由で不当に排除されるべきではないが、だからといってクォータ制(=事実上の女性優遇制度)を導入しろというのは、間違っている。クォータ制を主張している人たちはアファーマティブ・アクションの一環のつもりで言っているのかもしれないが、例えば身体障害者を何%雇えというルールはあっても、身体障害者を何%管理職に就けろというルールはない。高い能力と高い自己犠牲が要求されるポストにアファーマティブ・アクションを適用するのは間違いだ。
ところで、近頃の若者は反骨心がないとか権力に従順だとかいう論調が主に自称リベラル側に多くあるが、その理由は明らかで、GAFAに代表されるようなグローバル企業が登場したからだ。グローバル企業は文字通り「国境も宗教もない」存在で、まさに弱肉強食のリバタリアニズムの勝ち組である。彼らにとって共同体主義の権化である国家は目障りなので「多様性」という新しい宗教を用いて共同体を破壊しようとするわけだ。であれば、弱者である若者はむしろ共同体を守りたいと考えるだろうし、そこまで深く考えないとしても、(相対的に)大した権力を持たない「国家」なるものに反逆する動機付けがそもそも難しいだろう。それでなくても、「権力者」なるものを、暴力を用いずに、選挙でなぎ倒すことができるということを、つい数年前の選挙で目の当たりにしてきたのが現代の若者なのだから。
また、「ディープステート」なる頭の悪い考えが生まれてきたのも、行き過ぎた「多様性」と「グローバリズム」に対する反抗心の表れだと思う。「多様性」も「グローバリズム」も、ただの概念であって具体的な人物や団体がいるわけではないので、なかなか理解しにくい。しかし、「ディープステート」は(実在はしないが)具体的な人物であり団体だ。だから、馬鹿にはこのディープステートなる架空の団体を攻撃する言説が支持されるのだろう。
こうした世界情勢の変化に対応できず、未だに「国家は悪」「権力者は悪」という古臭い価値観に囚われているのが、現在のパヨクである。
「反日」という言葉もあるが、これも要は「反共同体ism」にすぎないわけで、反日の行きつく先はグローバリズムであり、リバタリアニズムなのだが、彼らは頭が悪いのでそのことに気付いてない。もちろん中には自覚してやっている人もいるかもしれない。なぜなら、高度なリバタリアニズムは共産主義と見分けがつかなくなるからである。例えば、猿山のボス猿は100%完全に弱肉強食のリバタリアニズム社会の勝者である。一方で共産主義は人工的にボス猿を作り出す。どっちのやり方も、ボス猿の独裁であることに違いはない。
私がガキの頃、ゲームの自由度という議論があった。つまり、自由度が高すぎるゲームというのは、序盤で何をやったら良いのかわからないのでつまらない、という話である。リベラルを巡る話もこれに似ていると思う。自由度が高すぎると不自由になる。だからといって理由を付けてどんどん自由を規制していけば、当然ながら不自由になる。ニュー・リベラルも、ネオ・リベラルも、どちらも「やりすぎ」なのである。適度な規制は必要だし、だからこそ国家は必要だ。一方で、何でもかんでも国家が正しい、国家の言うことは絶対だ、というのも当然ながら誤り。