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映画感想①:シビル・ウォー アメリカ最後の日
物語構造としては、『地獄の黙示録』つまりコンラッドの『闇の奥』だ。SF的解釈とともに同じ物語を描いた、前作の『アナイアレーション』と同じ。主人公たちは、内戦状態のアメリカをワシントンD.C.目指して進んでいくことになるが、これがそのまま、人間の内奥を徐々に深くまで覗き込んでいくプロセスと対応している。そもそも「内戦状態」というある種の限界状態こそ、人間の「醜い」部分や「闇を抱えた」部分が、世界にそのまま露出した状態であるということができ、主人公たちは(ジャーナリストという職業が意味する通り)それを「記録する」ないしは「観察する」という立場で世界と係わることになる。
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だが、「観察する」立場であることは決して、彼らが(そして映画を見ている我々が)「第三者」、つまり世界の外側にいる人であるということを意味しない。「我々は決して傍観者ではいられない」。これもまた、映画の大きなテーマとなっている。『地獄の黙示録』がそうであるように、そして『闇の奥』がそうであるように、主人公たちは「世界の奥」を見るため、最終的に「世界の奥」にどういった真実があるのかを目撃するためには、自分たちの足で「世界の奥」へと踏み入っていかなければならない。そういった形で、世界を「観察する」(我々の)視点もまた、世界の「狂気」や「暴力性」と何も無関係でないばかりか、そういった残虐な世界の「一部」ですらある。世界は誰一人として、自分の生きているこの世界に、無関係なままでいさせてくれはしない。
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監督前作の『アナイアレーション』では、主人公は最後に、自らの似姿と相対することになった。存在の本質と向き合うことは結局、「自分」と向き合うことでしかない。様々なモチーフとともに、劇中で繰り返し語られるテーマのそれが終局だった。
今作の『シビルウォー』では、最後に主人公の眼に(というより、私たちの目としてのカメラに)焼きつけられる光景はふたつだ。「自分自身の死の光景」と、やるせないほどあっけない「世界の奥の光景」である。絶え間ない生と死の連鎖、何の意味もない暴力の螺旋の果てで、あまりにもあっけらかんとした笑顔とピースが、私たちの方に向けられる。私たちはどういった気持で、世界にシャッターを切ったらいいのだろう。