ファミマ店員のチャンはずっと最悪の気分だった。本当の本当に最悪。嫌。 理由ははっきりしていた。突然血まみれで店に飛び込んできたデブの客に、やたらチラチラ見られること……ではなく、もちろん赤子雨だ。チャンは赤子雨が苦手だった。苦手というより、無理だった。久しぶりに話す国の友達に、「日本で何がキツい?」と聞かれたら、迷いなくいつも「赤子雨」と答えていた。答えを聞いた相手からはたいてい、「ああ……」とか、同情のこもったリアクションが返ってきた。 もっとも、日本に行くことが決ま
その日のパチンコはバカ勝ちだった。大当たりに次ぐ大当たりで、うはうはもうはうはだった。世界は素敵で、素晴らしく、ハッピーハッピーハッピー♪だった。 結局その日、熊野は時間も我も忘れ、実に六時間もの間、ぶっ通しでパチンコを打っていた。こんなに勝ったのは生まれて初めてだった。山積みになったパチンコ玉ケースを見ながら、「ついてる日というのはあるんだなあ……」と彼は思った。夕方、膨らんだ財布をポケットにパチンコ店を出た熊野の顔はもうホクホクだった。だがそんな彼の顔は空を見上げるな
巨人のコリーの剪定について、根室は妻から聞かされて初めてそれを知った。遅い夕食を二人、自宅のリビングで取っていたときだった。妻はコリーの名前を全然覚えていなかったので、「あのう、ほら。あの人よ。こっちじゃなくて、二子玉のほうの河原に、一人でぽつんと立ってる人。橋渡ってすぐのところに……。なんかちょっとほら、いつも眠そうな顔してる……」と要領を得ない説明をずっとしていたが(彼女は何につけても説明があまり上手ではない人だった)、根室にはそれがコリーのことだとすぐに分かった。「あ
マウが入ったとき、ガレージの中にはひとつも明かりが灯っていなかった。だから手探りでドアを開けて、彼女はクルマに乗り込んだ。シートに身体(ボディー)を投げ出したあと、両手で顔を覆った。アナクロなその遮断状態の中で、彼女はクルマのドアが自動で閉まる音を聞いた。今日、その音は許せないほど緩慢に聞こえた。 「大丈夫?」その時、すぐ近くで声がした。アラン―夫だ。 最後に息が途切れるような音を立てて、クルマのドアは完全に閉まった。重たい静謐さの中に、マウは夫と二人で閉じ込められたよう
(1) ずっとうつむいて歩いていた。傍から見ればそんな彼の足取りはまるで、関節の錆びついた人形のそれのようだった。だが彼の住む町にはそんな歩き方の人しかいなかったので、周囲の誰も彼に奇異の目を向けたりはしなかった。そんな彼の頬を、不意に淡い光がかすめた。彼は思わず立ち止まった。視界の端で滲み、流れていくようなその光を目で追った。するとその先、顔を上げた彼の視線は、ある建物を見つけて止まった。 小さな洋館といった趣きの建物だった。子どもが遊ぶドールハウスをそのまま巨大にしたよ
(1) 名古屋市内から目的地までは三十分もかからなかった。タクシーを降りるなり、凄まじい臭いが倉敷を襲った。付近には強烈な腐臭が漂っていた。生きているものが長く留まることを許さないような臭いだった。 マスクの上にハンカチを当てると、倉敷は歩きだした。 歩みを進めながら、彼は周囲を観察した。もちろんネットやテレビのニュースで、ここについて様々聞いてはいた。だが、実際に来るのは初めてだった。 噂通り、辺りには異様な雰囲気が漂っていた。地面があちこち剥げ、血のような黒が露出
新しい記録ビデオが上がってきたので、ぼくはすぐに内容を確認した。見終えてから、大きなため息をついた。佐々木さんは小さなZoomのビデオ画面の中で、「謝罪の証として!私はここで自分の!この指を切り落とさせていただきます!」と叫んだ後、包丁を思い切り振り下ろしていた。カメラに飛び散る血。他のビデオ画面から上がる驚愕の悲鳴たち。ぼくは再生を停止した。しばらく頭を抱えていた後、ぼくは無事の確認の連絡を佐々木さんに入れることにした。 ほとんど間を置くことなく、軽やかな電子音が室内で
ピーター・パーカーが能力を発現させたのは、彼が特別なクモに噛まれたのがそのきっかけだったが、斎藤エメがその能力を発現させたのは、特別でも何でもない、どこにでもいるような平凡な男に、乳首を噛まれたのがきっかけだった。 噛まれた瞬間、雷のように鋭い痛みが、斎藤エメの全身(裸)を貫いた。 出会ったばかりの男だった。久しぶりに友人と行った相席居酒屋で、自分たちの席にやってきた男たちのうちの一人がそいつだった。引っ掛かりを持たず、あらゆる記憶から滑り落ちる見た目をしていた。良い言
県庁の大型怪獣対策課で働くナガセは、ある日突然呼び出しを受けた。 「君は」部長は冷たい声で彼に告げた。「超小型害獣対策係に異動だ」 荷物をまとめて、すぐに新しい課の事務所に移れ。以上が部長から受けた最後の指示だった。シンプルで、明快。いつもこんな風に言ってくれていたら、あんなにたくさんミスをしなかったのにと思うと、ナガセは少しだけ残念な気持ちになった。 「聞いたよ」荷物をまとめている最中、タニグチに話しかけられた。彼はナガセがこの職場で、一番よく話した同僚だった。「異動に
汗がやたらとべたつく早朝。高架下の茂みの中で、ハルオは目を覚ました。 うるさいと思ったら、近くで鳥たちが盛り上がっていた。何か噂話でもしているようだった。昨晩も暑さでよく寝られなかったため、はじめは起こされてイラついたが、彼らの話す内容を聞いているうち、それどころではないことに彼は気づいた。 「なんだとっ! そんなことがっ!」ついにただ聞いていられなくなり、ハルオは叫びながら跳ね起きた。 驚いた鳥たちはあっという間に、濁った空へ散っていった。 その日の昼、ハルオは炊
呼び出しは、夕闇に紛れて訪れた。 扉が叩かれる音を聞いて、夕餉を囲んでいた家族たちは、一斉に面を上げた。不安そうな表情を浮かべて、彼らは一家の長―ドマルディの方を見た。 「大丈夫だ」器を床に置きながら、ドマルディは静かに言った。「少し出てくる。帰りは遅くなるかもしれんが、心配するな」 火を灯した松明を持ち、ドマルディは扉に向かった。隙間から外を覗くと、そこには隣に住むクヴァシルが立っていた。 「ウプサラの広場で集会が開かれる」ドマルディの耳に染み込ませるように、クヴァシ
子どもたちはそれぞれ物蔭に隠れ、息を潜めていた。 彼らが見ているのは、今にも崩れ落ちそうな小さな家。漆喰の壁はぼろぼろで、病気の犬の肌のようだ。家の周りには、背の高い草や年老いた木が生い茂っていた。子どもたちはみな、その木の下に集まっていた。はるか高くからの太陽の光が、枝や葉を通して、光のノイズを散りばめていた。虫の羽の音が、あちこちから聞こえた。 突然、小さな汚れたきつねが一匹、家の前へと躍り出てきた。子どもたちはそれを見ていた。だがきつねに、彼らを気にする様子はなか