江戸川柳、チラリ。のぞきみ
江戸川柳に関する新書を(あまり真面目にではなく、ぱらぱらめくる程度にですが)二冊よみました。どちらも著者は小栗清吾。
・『はじめての江戸川柳 「なるほど」と「ニヤリ」を楽しむ』小栗清吾,平凡社新書,2012
・『江戸川柳おもしろ偉人伝一〇〇』小栗清吾,平凡社新書,2013
今回のnoteでは、その中から、面白いなと思った句を幾つか引いて、簡単に感想を添えてみることにしました。
全体としては長めの記事になってしまいましたが、一句一句に対するコメントはそんなに長くないので、よければ下記目次から気になった句に飛んでみてください!
“去るといふ口もほれたといつた口”
江戸語では「去る」は他動詞で、「妻を去る」と言うと「妻と離縁する」という意味らしい。まあ、だから「別れよう」と切り出す場面の描写。
人を好きになったり、どーでもよくなってしまったり、煩わしくなってしまったり……
…みたいな恋もようが、めちゃくちゃ上手に、ユーモラスに、ちょっとかなしく、あるある風に詠まれていていいなあと思った。
小栗清吾は、「妻が夫に対して恨み言を言う場面」という読み方をしていて、多分それが〈江戸川柳のよみ〉としては正当なのかもだけど、今なら別に、男女問わず〈別れを切り出された側の感情表現〉として読めるような、普遍性もある気がする。
だって、往々にしてあるでしょ。「えー!?俺のこと好きって言ってたじゃん!!!」みたいな(往々にして…は言い過ぎ?笑)
なんか、ちょっと毛色の似てる二十世紀の川柳として
も思い浮かべたりした。水府のこの句も、恋の儚さや、恋もようのうつりかわりについて詠んでいる。
あと、詠んでることとか景自体は全然違うけど、
とかも雰囲気としてね。松江梅里のこの川柳は、かなり江戸っぽい気がした。精神性として。
“汐時を一度は太刀でくるはせる”
新田義貞にまつわる挿話をもとにした句。…らしいが、これはそれを知らないで、「そのまま読み」した方が、めちゃくちゃ掻き立てられて、格好いい景をイメージできるような気がする。
汐時を太刀で狂わせるとは!!
なんか、“太刀”による「斬るイメージ」と、“汐時”から連想される「海」とによって、ちょっと旧約聖書『出エジプト記』の、海を割るモーセ…っぽさもあるような気がした。
“一度は”というのも、よい。最低でも“一度は”ってことでしょ。ってことは、気が向けば(?)二度目三度目もあるかもしれない…。
格好よすぎて期待しちゃうじゃないか。
“天の川百人入れて手つだわせ”
昔の七夕は、短冊に願いごとではなく、和歌を書いていたらしい。自分でオリジナルの和歌が詠めない人は、百人一首の中から句を選んで書いたのだとか。
この句では、「一首」を言わずに“百人”だけを詠むことによって、一気に〈肉体感〉が増しているところが面白い。
自分では歌を詠めない人が、自分より優秀な歌人たちの肉体を従えて川にぶちこみ、奴隷労働をさせているようなユーモア。言い回しの斬新さ。
“さりとては又といふ時かきくもり”
「さりとては又」と言うとすぐに、空が曇っていく。
単純な景であるが、人間と風景との繊細な瞬間を切り取った格好良さを感じた。良い写生。情景そのものにハードボイルドがある。
「さりとては又」という、割と普段使いしていそうな言葉が、天候に影響を与えているようにも読めて、どこか言霊的なニュアンスも含まれる。
それによって、日常語としての在りようが変質していく感じも面白い。
リズムに意味としての切れ目を入れると、5-7-5ではなく7-5-5である…というのも、この時代の川柳としては新鮮味を感じた。
もともと小野小町の和歌をベースにしてつくられた狂歌を、さらに川柳へとアレンジしたものらしい。
“元日の町はまだらに夜が明ける”
シンプルにうつくしい。
小栗清吾のよみによると、元日の起床時間が、人によってバラバラである…という様子を詠んでいるのだ、と解釈されていた。
だとすると、その景から、この“まだらに”という言い回しをひっぱりだして来られることが凄すぎる。
これはもう明治期とか大正期の近代川柳ですよって言われても全く驚かない。
“浦島は歯茎を噛んでくやしがり”
シンプルにおもろい。理不尽に老いてしまった浦島太郎の感情と容貌。精神としては「歯を食いしばる」ほど若いのに、もはやその肉体には歯がないのだ。
“わっさりと岩戸開けんと四方の神”
天照大神の岩戸隠れを詠んだ句。岩戸の周りで、天照を呼び出すためにどんちゃん騒ぎを始める神々を、「わっさり」というオノマトペで表現しているのが効いている。
“人が降ったと洗濯をやめて逃げ”
「久米仙人」について詠んだ句だが、これも元ネタを知らずにそのままよみした方が驚きがあって良い。…なんて思うのは、現代川柳的な視点に寄りすぎた暴力だろうか。
人が降って、洗濯をやめて逃げる……この距離。
“さんげさんげ間男をいたしました”
さんげ=懺悔。6-5-6の17音が新鮮で好い。
縦書きだと、むかしながらの「く」が長くなったみたいな繰り返し記号で、目でながめても心地よい。
ので、冒頭の縦書き画像も是非見てみてね。
(いったん、ここまででおわり。)
江戸川柳に触れてみようと思った理由
今回、江戸川柳に関する新書を読んでみようと思ったそもそものきっかけは、斎藤大雄(著)『現代川柳ノート』(葉文館出版,1996)を読んだことでした。
斎藤は、〈現代川柳〉について解説するその本の中で、“川柳といえば即古川柳と解釈されるのも無理のない事実”で、国語辞典も文芸事典でさえもそのような解釈になっていることを示しました。
ただ、そういう解釈を“是正していかなければならない”としつつも、古川柳と現代川柳との関係について、次のように述べています。
長い引用になってしまいましたが……。
僕自身の実感としてはこれまで、むしろ属性川柳(サラ川やシルバー川柳)的な〈上手いこと言う…みたいな場〉とは切り離された、〈より高い文学性を目指してゆく場〉としての川柳として、現代川柳というジャンルを捉えていました。
対して、斎藤大雄は、古川柳と現代川柳との〈つながり〉を強調しています。この論には正直かなり驚かされました。
まあ、それでも、個人的にはやっぱり、古川柳との〈断絶性〉を唱えることで〈現代川柳〉の立ち位置を示していく…というやりかたの方が、現実的だし分かりやすいような気はしたり……。するのですが…。
しかし、斎藤の古川柳に対する誠実さは、少し見習わなくてはいけないな…と思ったのも事実です。
『現代川柳ノート』では、先ほどの彼の川柳観も相まって、テーマによってはところどころ、古川柳も高い文学性をもった作品として引用されています。
そしてもちろん、「ザ・現代川柳」的な作品も沢山扱われていて。
これだけ一冊の中で古川柳と現代川柳を等価のものとして扱った本は珍しいように思いました。
(なんなら、〈断絶〉という分かりやすさで古川柳を捨て去ってしまおうとする川柳人に対する猛烈な抵抗としてもよみとれます。)
……と、そんなわけで、ちょっとぼくも誠実ぶって、江戸川柳よんでみようかなあ、、、なんて思ったわけでございました。
もちろん、やっぱり現代川柳の方が読んでてダンゼン楽しいのですが、その分、江戸川柳や古川柳で「あ!!この句はおもしろい!」とか「すごい!美しい!」という句を見つけた時はめっちゃドーパミン出る!!!って感じがします(笑)
みなさんも、機会があればぜひ、古川柳感想も共有しあいましょーー!