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万歳とあげて行つた手を大陸において来た / 鶴彬 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

万歳とあげて行つた手を大陸において来た

鶴彬(1909-1938)

 この句、多くの場合は「万歳とあげて行つた手を大陸おいて来た」という句として、紹介されている。ただ、初出では“大陸おいて来た”となっているそう。

(↑参考: 動画内、4分38秒〜6分10秒あたり)


 正直、真偽は分からないのだが、評者自身「大陸へ」よりも“大陸に”の方が、よんでいて気持ちはいい。
 「大陸へ」という語りからは、何かしらの目的意識のようなものを感じる。何かしら…というのは、この句の場合、大日本帝国による領土拡大や、軍による大陸への侵略、制圧…だったりだ。また、語り手自身の像としても、より主体的に“万歳と”手をあげ、その目的意識に賛同した上で「大陸へ」と向かっていった…というようなイメージがつきやすいように思う。
 一方、“大陸に”という言い回しは、「大陸へ」と比べると、語り手自身の主体性も、全体としての目的意識のようなものも、ぼやけて見える気がする。“万歳とあげて行つた手”と語り手自身との心情は、初めから強く接続しきっていない。というより、そもそも主体的になにかを成そうとしていた語り手の像そのものが見えてこない語りだと思う。

 少しこのニュアンスの違いが気になり、ネットで調べたところ、「へ」よりも「に」の方が、より〈到達地点そのもの〉を強調するような助詞らしい…ということを知った。「へ」は、どちらかというと〈方向性〉を示す。「に」は点。「へ」は線。

 この句においては、“手を大陸おいて来た”の方が、無機質に、ありありと、自分の手が大陸という地点に転がっているような景、物質として切り離されてしまった手、国から部品のように使い捨てられてしまった語り手自身の無念さをイメージしやすい。遠い大陸をただ地点として捉え、それを今いる地点から呆然と語る…。その人間感情の見えなさが、むしろリアリティのある恐さを演出している感じもした。
 「大陸おいて来た」だと、(あくまで「に」と比べた場合の話ではあるが)なんらかの志向性が介入してくる気がする。語り手自身が、みずから“万歳とあげていつた”というような過去や感情を、より読者に意識させようとする言い回し……と言えるかもしれない。
 だが、評者はどちらかというと、その“万歳とあげて行つた”過去を、すでに乾いたものとして眺めているような“大陸において来た”という語りの方が好きだ。

 一応、いま評者の手元にある資料の中で、『金曜日の川柳』(左右社、2020、114p)だけは、(メインで扱っているのは他の句だが、評の中で紹介されているこの句は)“大陸において来た”の表記だったので、このnote評でも、そちらを使わせてもらうことにした。

 いやはや、前置きが長くなってしまった。



 さあ、では本題。改めて句をみてみよう。

万歳とあげて行つた手を大陸において来た

鶴彬

 まず長い。5-8-5-5(あるいは5-6-7-5でもよめるかも)の二十三音。でも、川柳だなあ。と思う。思う、どころじゃない。川柳。この句は、プロレタリア川柳の代表句と言っても差し支えないだろう。

 軍国主義への痛烈な風刺。というか批判。鶴彬は、こういう句を他にもたくさん詠んでいる。
 鶴は、柳界内でも結構いろいろな人を敵に回す、わりと激しめな柳論なども書く人で、結果的にそういういざこざの原因も重なったのか、なんと他の柳人からの密告によって、当時の特高警察に捕まったらしい。(『反戦川柳人 鶴彬の獄死』佐高信,集英社新書,2023,126-129頁)
 投獄されているさなか、体調を崩し、赤痢などの症状を伴ってそのまま死亡した。
 激しめな人生を送った作家だが、ここで書きたいのは作家論ではない。あくまで川柳評、作品論を書こうと思う。
 ただ、そう思いつつも、この鶴彬の強い生き方がどうしても干渉してくるのだが……。まあ、それでもできるだけ、作品を純粋にテクストとしてよむ努力をしてみたい。

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 まず、本当に二十三音も音数を使う必要はあるだろうか。ためしに、原句の大意は変えないようにしつつ、いくつか5-7-5の案を提示してみる。

  「万歳の手を大陸において来た」
  「万歳とあげた手 今は大陸に」
  「大陸にのこされた万歳の手は」

 …やはり、(評者の改変力のなさも勿論あるだろうが、それを抜きにしても)どれも原作句の衝撃には遠く及ばない。

 ちなみに“万歳”を題材にした鶴彬の句は他にも

万歳の声は涙の捨てどころ

鶴彬

万歳を必死にさけぶ自己欺瞞

鶴彬

 などがあるが、やはりそれらの句と比べても、ダントツでこの“万歳とあげて行つた手を大陸において来た”が傑作であるように思う。
 風刺や皮肉を超えた力がある。それも、川柳という詩形を保ったままで。

 川柳の定型を、〈枷〉ではなく〈乗り物〉として捉えるという見方がある(参考 : 『宇宙人のためのせんりゅう入門』暮田真名,左右社,2023,26-30p,74-78p)が、まさに、この句の迸りでている感じは、川柳の定型が不自由な〈枷〉ではないことの証明にもなっているような気がする。

 身体部位の欠損。それを、いったん感情を抜きにして、事実ベースだけで語る狂気。淡々としているし、読み方によっては不気味な「飄々さ」すら感じるかもしれない。
 ただ、感情を抜きに…とは言ったものの、“万歳とあげて行つた”とは描かれていて、それがより生々しい。大陸には、“手”(身体)と同時に、“万歳”(精神・主義、思想)もおいて来たのである。

 「置いて来た」ではなく“おいて来た”なのも、凝っていて良い。「置いて」だと、語り手自身が「設置」に携わっているような〈主体性〉が見えてしまう感じがする。“おいて来た”の五音が「おいて来ざるをえなかった」というニュアンスを発することに成功している。かと言って、「おいてきた」でも弱い。最後は漢字でしめる、この“おいて来た”が絶妙な表記だ。

 戦争を通じた当事者の心身は、決してそれ以前の、もとあったままの生活の姿には戻れない。
 この句とて、もはや5-7-5なんていう表面的な決まり(ここではあえて、そういう言い方をさせてください。)には収まってはいられなかったのであろう。しかしそれでもなお、川柳。川柳なのである。



 最後に、作家・田辺聖子が鶴彬について語った文章を引用させてもらう。様々な川柳を愛した田辺だからこそ、フラットな見方で、鶴について論じている。これから鶴彬の川柳と向き合っていこうとする人にはもちろん、すでに鶴彬をモーレツに推しているぞ!という方にも是非、よんでもらえたらと。

 鶴彬の川柳だけが真の川柳だとは、私は思わない。人生も川柳もさまざまなかおがあり、表現もまた、さまざまである。多くの川柳作家が戦争中は、戦意昂揚の標語みたいな句ばかり作っていたのにくらべれば、信条をぬりかえなかった鶴彬はみごとだが、人はそれぞれの運命で超越者に活かされているのであり、おのがじしの能力のうつわから出ることはできない。
 ただ、われわれは鶴彬の愛とプライドを忘れてはいけないと思う。大衆に対する彼の愛と、川柳におけるプライドである。

『川柳でんでん太鼓』田辺聖子,1985,講談社,84頁


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 鶴彬については、私の別のnote評(下記リンク)でも少し触れているので、よければそちらも読んでいただけると、とても嬉しいです。


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