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「君が代」を吹奏意志のない人形である / 林ふじを 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】


「君が代」を吹奏意志のない人形である

林ふじを(1926-1959)

驚いた。
……というのも僕にとって、林ふじをという人は、「性愛句」のイメージのみが非常につよい川柳作家だったからだ。

貴方あなたの色彩が私をいつぱいにする

林ふじを

接吻のまま窒息がしてみたし

同上

少女もう少女ではない桜の実

同上

眼をとぢて野性にかへる肌と肌

同上

機械的愛撫の何と正確な

同上

「赤ちやんがほしい」男をギヨツとさせ

同上

体臭の静かに同化した過程

同上

など。そしてなにより激しさを感じる、

ベツドの絶叫夜のブランコに乗る

林ふじを

という句。

このように、「性愛句」や「おんなとして句」を多く詠んだ(そちらは例えば、2024年に飯塚書店から刊行されたばかりの、黒川孤遊による『流花 女性川柳家伝』に詳しい)一方で、今回の評で扱う句や

アカハタを読んで社内の眼をあつめ

林ふじを

なんていうプロレタリア川柳のような句も、実は詠んでいたのだ。



 前置きの引用が長く(多く?)なってしまった…。本題。改めて今回の評で扱う句を引用しよう。

「君が代」を吹奏意志のない人形である

林ふじを

 さて、“意志のない”と明言しているはずのこの句から、こんなにも強烈に感じられる「意志」、そして「決意」、「闘志」。これは一体なんなのだろう。

 “人形”というのは本来、詩や文芸においては「受け身」や「主体性を発揮できない者」のメタファーとして使われることが多い。なんの意志表明も、酷い場合には意志を持つこと自体も許されず、言われるがまま、されるがままの弱い存在…。

 例えば、林よりも少し前の世代の女性川柳人、三笠しづ子は、「おんなとしての自己」と“人形”とを重ね合わせ、それを嘆くような形で、いくつかの句を詠んでいる。

またたきのない人形に見詰められ

三笠しづ子(1882-1932)

これ以上人形らしくなり切れず

同上

 しかし、林の句においては、“人形である”ことは「嘆き」を意味しない。むしろ、この句においては、“意志のない人形である”ことを明言することによって、「闘争する意志」を表明している。自らに強いられそうになる行為(=君が代)に対して「“人形である”ことそれ自体」を武器に、抵抗しようと言うのだ。

 また、これが〈「君が代」を歌う意志のない人形である〉ではなく、“「君が代」を吹奏意志のない人形である”という語りなのもすごい。

 たとえば「君が代」を、この語り手ひとりが歌わなかったとしても、(まあそれでも当時も今も顰蹙ひんしゅくは買うかも知れないし、歌わないことそれ自体にも勇気は必要だと思うが、にしても)コミュニティ全体への影響はすくない。その「歌っていない一人」さえ無視しておけば、コミュニティにおける「君が代の斉唱という儀式そのもの」は、滞りなく進んでいくことだろう。

 しかし、原句のように、“吹奏意志のない”という語りをしているということは、この語り手は「伴奏の放棄」をしているのであり、そこに至っては、自分以外の人にも「君が代」を歌わせないようにしよう、という強い意志が秘められている…という風にも読むことができる。もちろん、深読みだってこともわかっている。わかった上で、させて欲しい。

 〈歌う意志のない人形である〉場合は、《逃走》も意味するだろうが、“吹奏意志のない人形である”ことは明確な《闘争》を意味する。「歌うのがいやだ!」という独語的な叫びではなく、「歌ってはだめだ!」という社会的な警句なのである。

 なんなら音数だけで言えば、〈「君が代」を歌う意志のない人形〉の方が十七音にはおさまるはず。それにも関わらず原句二十一音にしているのには明らかに意味がある。“である”という語尾までが、“意志のない人形”との対比の中でつよく、つよく生きているのだ。

 今までさんざん語り手のことを「おんな」として、“意志のない人形”として、虐げてきた社会。その社会が、今度は国歌斉唱を支えるような意志を見せてみろ!と言ってくるのである。たまったものではない。これまで散々人形扱いだったでしょう。なら、より純粋に人形として生きてやりますよ。と、そういう覚悟。
 人形であること、弱者であること、下層階級であること、それ自体を武器にする。それは例えばストライキなどにも通じることかもしれない。

 政治的立場によって、林のこの川柳に対する「好き嫌い」はわかれるかも知れないが、しかし、文学的観点から見れば、“人形”の用法を押し広げているその一点だけを見ても、この川柳は評価に値するだろう。

 押し付けられた理不尽をより純化することで、むしろ理不尽さに対して抵抗すること。“意志のない人形”であろうとする意志。格好良すぎるじゃないですか、ふじをさん。


 では最後に、評者の好きな林ふじをの川柳を一句引用して、終わりとさせていただく。
 性愛句と並べて読むと性愛句のようにも思えるが、一方で、プロレタリア風の川柳と並べて読むとまた一味ちがった読み方もできるような気がする。

湯がたぎるしづかにしづかに今を愛す

林ふじを

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