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“Crossing the Bar”(1889) by Alfred Lord Tennyson 意訳か誤訳

砂州を越えて

   アルフレッド・テニソン 

黄昏  宵の明星
 わたしを呼ぶ 澄んだ声よ!
どうか海へと 漕ぎ出でる時
 砂州に嘆きのないことを…

それでいて  果てなき海原より寄せくる姿
 再び還る頃には  まるで 眠りながらの作法のように
音も 泡沫もたてない波の
 満ち満ちた潮汐(しお)であるように…

薄明  暮の鯨音
 そしてまた  此の夕闇にも!
わたしが舟へと  乗り入れる時
 どうか別れを惜しまぬように…

人々の考えが及び得る限りの境  —  “時”と“場”との
 其の境から  流れが此の身を運び去ったとしても
それでもわたしが希むのは  砂州を渡った暁に
 “御導き手”とあいまみえること…


(日本語訳詩 : 牛田悠貴)




《訳したときの参考資料》
・『イギリス名詩選』平井正穂 編  岩波文庫1990
・『花と詩と音楽と』tad ホームページ
・『哲学と翻訳』筒井一穂  Hatena Blog

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『花と詩と音楽と』URL
http://tad.world.coocan.jp/poems_1/poem_56.htm


『哲学と翻訳』URL
https://tsutsui-research.hatenablog.com/entry/2020/08/22/162849

          
   

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追記

《2連》
Too full がどこに掛かっているのか、潮汐が満ち満ちて…というニュアンスにしたけど、かなり誤訳な可能性あり。
「姿」というのも日本語をつくる上でのニュアンスなので、それに相当する英単語は原詩にはない。

《3連》
bell に鯨音(げいおん)は流石に重いか…
鐘音(かねのね)でよかったかも。カッコつけすぎてダサくなっちゃった。

《4連》
Forは、文脈的にわざわざ「なぜなら」を入れなくても、なんとなく伝わるような気がして、訳さずにおいてます。
our が難しかった。「わたしたちの」にしちゃって良かったのかもだけど、「わたし」「わたし」でしつこい気も。平井正穂の訳で「人間の」になっていたのに倣って「人々の」とし、更に「思いが及ぶ範囲での」という原文には無いかもしれないニュアンスを足してしまった。…よくないかも。
頭文字が大文字の“Pilot”は“神”を暗示している。普通には「案内人」の意味だからなんかそこに畏敬のニュアンスを加えたくて「御導き手」という日本語にしてみた。
この“Pilot”にも“my"がついているので、本当は「わたしの」とすべきだったかも知れないが「わたし」「わたし」でしつこ(以下略)

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ちなみに、アルフレッド・“ロード”テニソンの“ロード”は名前というよりは“〜卿”みたいなニュアンスらしい。
日本で紹介されてる時には、基本「アルフレッド・テニソン」か「アルフレッド・テニスン」の印象。

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