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マスコットのように思い出一つ秘め / 笹本英子 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

マスコットのように思い出一つ秘め

笹本英子(1910-1964)


作家、田辺聖子は著書『川柳でんでん太鼓』において、川柳には大きく「タハハハ川柳」と「うーん川柳」がある、と言った。

人情世帯の機微をうがって、思わずオトナを「タハハハ……」と笑わせる「タハハハ川柳」

川柳でんでん太鼓、田辺聖子、講談社1985 、23頁

一読、詩趣汪溢、「うーん、いいなあ」と感じ入る、「うーん川柳」

同上、20頁

である。

その分け方に従うのであれば、笹本英子のこの句は、明らかに「うーん川柳」であろう。

例えば、もし仮にこれが

「マスコットのように飾りにされていて」(評者作)

というような句であれば、それは「タハハハ川柳」よみしても良い。(もちろん、嫌な気持ちにもなって「タハハハ」なんて言ってられないよ…という読者もいるかも知れないが、それでも風刺的な〈ユーモアのニュアンス〉は掴めるだろう。……掴める…よね…?掴んでくだせえ…。)

しかしこの笹本のような句においては、まず

“マスコットのように”

“思い出一つ秘め”

との間に距離がある。「マスコット→飾り」とか、「マスコット→かわいい」みたいな、シンプルに連想しやすい距離ではない。

原句には、「マスコット→〇〇→秘めごと」みたいな感じで、そのイメージには、なにかしらの中間地点があるように思える。(むしろそうでなければ、説明がつかない。)
その〈距離〉を埋めるために、読み手は句において語られたことばかりではなく、その外にあるであろう〇〇に対する想像力までも喚起されるだろう。

この句の成立を可能にしているイメージとはなんなのだろうか?と考えずにはいられなくなる。

(ちなみに、ここではあくまで〈マスコット→〇〇→秘め〉が大事で、「マスコット→△△→思い出」というのは成立しないと考える。「マスコットのよう思い出…」という言い回しであれば△△についても考慮する余地があるが、この句は“マスコットのよう思い出一つ秘め”である。)

**

では、そもそも“マスコット”は、何かを“秘め”ることはあるのだろうか?

例えば、「マスコットキャラクター」の着ぐるみを着て、愛想よく動きまわる〈中の人〉…というのは「秘められている」…と言えるかもしれない。

あるいは、“マスコット”を使って会社や地域を、なんとかうまいこと世間に広めて儲けたい…という意思や欲望も(もう今や、別に隠されても居ないのかもしれないが)“秘め”られている…と言えないこともない。

…みたいな感じで、もとの〈句における語り〉の意味やイメージを探って読みを成立させていくためには、読者の側でも想像力を一定程度飛躍させ、深読みしていく必要がある。

**

また、この句において“秘め”られているのは、“思い出一つ”である。(なんと美しい…)

ここには、少しだけあやしい香りもする。
思い出を一つ、秘めて置かなくてはならないのだ。

〈未遂の野望〉とか〈用意した計画〉を隠しておかなくてはならない…という次元とは大きく異なる。
“思い出”とは〈既遂の記憶〉なのだ。それを“一つ”だけ秘める。

この句の語り手は、普段から隠し事が多いわけではない。唯この“一つ”だけを、なんとしても隠し通さなければならないのだ。

それも、“マスコットのように”…。
ああ、…示唆が深すぎて溺れそうです。



…とは言ってきたものの、そこまで明確な解釈をしてよまずとも、なんとなく、それこそ田辺聖子の言うように“一読、詩趣汪溢”でもあるところもすごい。

(って言うか、そう考えると、そもそも田辺聖子が「うーん川柳」の条件として提示した“一読”…ってところはかなり大事ですね。一読して感じ入るものがあるからこそ、そのあとの解釈が生まれるのでしょう。)

他人への説明が義務付けられていなければいないで、その詩情を深掘りせずに通り過ぎてもよい心地よさ…というのも、また川柳の魅力のひとつであると思う。

これまでに何句か川柳評をしてみて思ったのは、評を書く前の〈なんとなく好き〉という感覚と、評を書いたあとの〈具体的な好き〉は勿論違うのだが、……違うのだが決して「なんとなく好き」が劣っているというわけではない。
ということだ。それは確信している。

でも、その「なんとなく好き」にも価値がある!……ということを〈確信〉するためには、具体的な評も書いていく必要があるのかもしれない…。

なんて、結局最後は、句自体とは関係のないところの自分語りに着地してしまった。タハハハ………。

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