B29破れ太鼓の音で来る / 小田夢路 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】
小田夢路は「番傘」の同人。副会長もしており、戦時中も精力的に同誌へ寄稿していたようだ。この“B29”の句は、1945年の3月発行の『番傘』に載っているそう。
評者は、もちろん実際にB29の飛行音をきいたことはないが、それでもこの句よむと「なんだか分かるかも」という気にさせられる。(B29が生活の真上にやってくる時の「深刻さ」が分かるというのではない。“破れ太鼓の音で来る”という描写が、景として、音として想像がつくような気がする…という話だ)
語り手の実感を追体験するタイプの川柳。
最近の現代川柳に多く見られるような〈驚くべき飛躍〉がない(少ない)からこそ、伝わってくるものがある。描写がわかりやすいからと言って、決して稚拙というわけではないのだという、たいへん当たり前なことを改めて思い出した。
他の川柳作家の方々に分かってもらえるかは微妙だし、単にまだまだ自分が未熟なだけかも知れないが、評者は川柳を作句している時、たまに自作句に対して「これは分かりやすすぎてダメかな?」とか「飛躍が弱すぎるなー。もうちょっと別の〈ハマる言葉〉を考え直さないとな…。」等と思うことがある。
でも、その自意識は(もちろん妥当な場合も多いが)もしかすると過剰な場合もあるのかもしれない。
必ずしも、全てが全て、分かりやすさのせいで詩情が失われている…なんてことは絶対にないのだ。むしろ、もっと別のところに〈詩情へと至れぬ理由〉があるにも関わらず、飛躍ばかりを目指してしまっていたとしたら、それこそ独りよがりな句しか作れなくなってしまうよなあ…と、この句を見て思ったりした。
句として面白いな、と思った(…っていう言い方をこの戦時句に対してするのはちょっと良くないかもしれないけど、作品評なので許してね。)のは、まず、“B29”が、「ビーにじゅうきゅう」と〈七音〉のはずなのに、ほぼ字余り感なく〈上五〉として感じられるところである。(「ビーにじゅうく」よみだと六音)
コンパクトな字体と、切れ字っぽさからだろうか。注意しないと字余りに気づかない…なんて、なかなか興味深い現象だ。
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ここからは、句で詠まれている意味内容について。
評者は普段、打楽器奏者でもあるのだが、いつもはその見た目から堂々たる「太鼓」の皮が、“破れ”てしまった時には、なんだかもう奏者自身すらドンとは構えていられなくなってしまうような感じがする。
日頃「ドン、ドン」と鳴ってくれる太鼓も、皮が破れると「ビョン、ビョン」とか「ジョゥン、ジョゥン」と鳴ってしまう。それは、単に間抜けな音というだけではなく、不快で、不穏な音でもある。腹に響かず、頭だけに響き、皮膚がぞわぞわするような音。
基本的に太鼓は、もう皮膜が破れてしまった時点で、それ以上その打面を叩くようなことはしない。すぐにはりかえ作業をする。だが、公演中(コンサートやライブ中)に叩いている太鼓の皮が破れてしまった時だけは、場合によってはそのまま演奏をし続けなければならない。そんなときの音は、なんとも悲痛だ。
そんな悲痛な“破れ太鼓の音”を乱打しながら“B29”は、語り手たちの生活の真上に集団で迫ってくるのである。すべての太鼓の皮が破れてしまっている打楽器アンサンブルが、乱打しながら近づいてくるような“音”は、まさに、破壊のための音だ。
(また、別のよみかたとして“B29”の〈重み〉や〈深刻さ〉を、“破れ太鼓の音”と茶化すことによって、絶妙に川柳的な軽みや穿ちを獲得している…という見方も出来るのかもしれないが。)
小田夢路は、1945年8月、広島で原爆をうけ亡くなったのだそう。
番傘は、その年の6月から、印刷所が焼けたために誌面発行出来ていなかったらしいが、それでも小田は六月、七月と投句していたのだとか。
最終的には上記に引用した句が〈遺詠〉ということになった。辞世に際して詠んだ句ではなく、単に、突然に遺詠になってしまった…というところにもやるせなさを感じつつ、どこか覚悟のようなものも感じる。力のある句だ。
他に、1942年の『番傘』第6号では、
みたいな可愛いめだけど、皮肉も込められていそうな句も詠んでいる。(当時、国語審議会が常用漢字の審議中だったのだとか)
最後に、作家、田辺聖子が『田辺聖子の人生あまから川柳』で紹介している、戦争とは関係のない、小田夢路の句を引用しておわりにしよう。