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火星が閃めく、瓦斯タンクが刻一刻下る / 岸本水府 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

火星が閃めく、瓦斯タンクが刻一刻下る

岸本水府(1892-1965)

 一応、【著作権のおわった柳人の句をよもう!】という趣旨でやっているnoteなので、基本的に扱っている作品は川柳なのですが、この句はちょっと訳ありというか、なんと言うか…。
 水府さん、これ現代俳句主義の雑誌に提出した句らしいんですね。いやー、そうなると俳句かなあ…。とも思いつつ、あ…!でも【柳人のをよもう!】なら、別に川柳限定じゃないか。と、開き直りました。
 いやいやいや、屁理屈なのは分かっていますし、俳句は門外漢なので、まあもちろん、至らないこともあるでしょうが…。でも、しょうがないじゃない。この句好きなんだもん。じゃあ、始めますよ。



 では、改めて。この“火星がひらめく、瓦斯ガスタンクが刻一刻下る”は、大阪の「煤煙」という雑誌に投じられた句です。「煤煙」は現代俳句主義を唱えていました。まあ、なので、先ほども言ったように純粋に川柳と言えるかどうか…。というところです。
 実際、“火星が閃めく、”の読点で、俳句における「切れ字」的な効果を狙っているようにも見えますし、“瓦斯タンクが刻一刻下る”は、冬の景を思わせる感じがします。夏よりも使いそう。ガス。
 ただ、俳句独特の〈季節のなかの瞬間的な発見を切り取った詩情〉というよりは、瓦斯タンクの中身が“刻一刻”と減ってゆく〈時間の流れ〉だったり、またそれによって刻々とガス代が家計にのしかかってくる…といった状況を詠んでいるようにも見えます。「ああ、これだから冬は…」みたいな、当時を生きる人たちの〈生活感〉だったり、〈ぼやき〉だったりを詠んでいる…とも解釈できる点では、川柳的であると言えるかもしれません。

 音数で大きくみると上八音、下十五音。もう少し細かく分かるなら8-6-9、もしくは8-6-6-3かも知れませんが、いずれにしても全体で二十三音ある長律句です。
 響きとしては、子音、g音,k音といった軟口蓋破裂音を中心に、口にも耳にも心地よく感じられます。上八音“火星が閃めく”は、k音ではじまってk音で閉じていますし、下十五音“瓦斯タンクが刻一刻下る”はもう軟口蓋破裂音のオンパレードです。試しに言ってみてほしいのですが「瓦斯タンクが刻一刻下る」みたいに「と」を入れてしまうと一気に韻律にブレーキがかかってしまうような感じが分かると思います。これが原句のように“刻一刻下る”となると(「く」が続くので、本来は言いにくくなりそうな気もするのですが不思議と)一気に句を駆け抜けていくことができます。
 他にも韻で言うと、“閃めく”と“下る”…というように、句の切れ目がどちらも〈u〉母音で終わっているところもいいですよね。

 さあ、句意にうつっていく…となるとこれがまた難しいのですが、まず、突如現れる“火星”。それが“閃め”きます。“閃めく”は、ゆらゆら揺れているのかもしれないし、キランと光ったのかもしれないし、語り手の頭の中に妙案のように浮かんだのかもしれません。一番ピンときやすいのは、「火星がキラッと光った」という景かなあ…。
 ただ、次の瞬間にはもう、我々の日々の生活を支える“瓦斯タンク”の減りに意識を向けています。その距離。宇宙と、家庭生活とを結ぶその距離。読点が、何とかその距離を繋いでくれているのです。

 なんだか、詩作と現実生活とのギャップを、一句の中に詠み込んでいるようにも感じられました。“火星”級の詩句を“閃め”いた次の瞬間には、また食わずには生きてゆけない生活が待っている…。そんな小さな絶望と、しかし小さな絶望があるがゆえの「戻ってこられる」安心感と。それを水府はこのように、軽みをもった句体で、宇宙的規模感と生活感覚とを繋げながら提示した…とも、よめるのではないでしょうか。

 あえて言いましょう。これは、川柳です。川柳による距離です。



 評者はこの句を、田辺聖子(著)の『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代 上』(中央公論社,1998)で知りました。当時、関西の川柳界は古川柳色が濃く、同じく関西で活動していた、岸本水府をはじめとする若い川柳作家たちは、そんな状況にすこしうんざりもしていたそう。であれば、水府がこの作品を俳句中心の雑誌に投句したのもうなずけます。そして、また田辺聖子の同書を読めば分かりますが、古川柳風の作品も上手く詠めてしまうのが、水府さんの器用さなのです。
 でも、やっぱり器用さよりも、己で爆発しようとしたこの句(川柳!)のエネルギーはすごいなあ!と思ったのでした。

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