君 雲を話す心になり給へ / 水谷鮎美 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】
なんて美しい川柳だろう。“君”という呼びかけ。一字空け、からの“雲を話す心になり給へ”という語りかけ。やさしさに包まれる。きっと。すべてのことはメッセージだ。
いやいや、ふざけているわけではない。まあちょっとふざけたけど、ふざけただけではありません。ほんとに、もう、優しさがすごい。
“なり給へ”という厳かな言い方で締められているにも関わらず(「立派な大人になれ」みたいな話なのかと思いきや)、それが示しているのは、“雲を話す心”だ。あの、懐かしい心だ。「アイスクリームみたいな形だねー」「ゆっくり動いてるねー」「大きいねー」「届くかなあ?」みたいな、平凡で能天気で、だけど純粋な幼児的な心。(「子ども心」よりも更に純真というニュアンス)
そんな心を忘れてしまった“君”へ、そう語りかけているのである。
“君”に対する呼びかけから入る短詩といえば、『たとへば君…』から始まる、河野裕子(1946-2010)の短歌も連想された。河野の短歌は上六。ちょっとした破調の中で呼びかけられることの独特な効果がある。水谷の川柳も、全体としては十七音だが、“君 雲を話す心に”という2-10(あるいは2-6-4)というリズムは、破調的である。まさに読者と“君”とが重なり合い、強制的に次の詩句へと耳を傾けさせられてしまう(←すごい日本語)のだ。
また、冒頭で“君”と呼びかけられ、「給う」という語が使われている作品としては、歌人、与謝野晶子(1878-1942)による詩『君死にたまふことなかれ』も思い出される。むろん、水谷の句には、与謝野晶子の詩のような深刻さは感じられないが。
ところで、河野裕子の短歌における“君”とは「恋人になりたい人」であり、与謝野晶子の詩における“君”とは「戦地へむかう弟」である。両作品ともある程度、語り手から見た“君”に当てはまる指示対象は限定されているのだ。それによって、語り手から“君”へと向けられた言葉は、かなり直線的な詩情となって“君”(ひいては、“君”や“語り手”に自己同一化する読み手)へと届いてゆく。
しかし、水谷の川柳における“君”には、どこまでも拡がりがある。“雲を話す心になり給へ”…。誰にでも言える言葉だが、じゃあ誰に言えばいいのかと問われると、中々一概には言えない。(ということは、この句において読み手は、語り手にも“君”にもパッと自己同一化はしにくい。むしろ読み手は、純粋な第三者視点をもった読み手へと近づくのだ)
そんな拡がりが、“君”を対象にしながらも一直線に刺す詩情とはまた違った〈軽み〉をもたらしてくれる。(というか、もしかしたら、語り手が自分自身にむかって呟いた言葉=モノローグなのではないか…とすら思えてきません?)
明確な行き先を持たないその詩情は、“君”へと〈届く〉ことよりも、“君”へと〈留まろう〉としているようにも思えるのだ。命令形でありながら命令を逸している。その軽み。
まさに、川柳たるゆえんであろう。