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それって「誰にとって」の話ですか?

子どもと関わるのは怖い

2022年からボランティアで子どもと関わるようになった。
2023年からは子ども支援のNPOで正職員として働くようになった(※1)。

子どもと関わるのはとても怖いことだと感じる。
「死ね」と言われれば本当に死んでしまうのが子どもという生き物だから。
侵襲的な大人の言動に対して、跳ね返す力や言葉や立場やお金を持っていないのが子どもという生き物だから。
自分より未熟な者を自分の思うままにコントロールしたいという欲望を持ってしまうのが人間という生き物だから。
子どもと比較して、圧倒的に力や言葉や立場やお金を持っているのが大人という生き物だから。
だからこそ、子どもに対して何か助言するときは、常に「誰にとってそれはよいのか(良いのか/善いのか)」を意識するようにしている。

真に「子ども本人にとってよい」と思って自分は発言しているか?
子ども本人にとって「よい」と考えた根拠は何なのか?
そもそも子ども本人にとって「よい」とはどういうことなのか?
子ども本人の望んでいることを叶えることが「よい」ことなのか?
それとも知識と経験の豊富な大人としての目線で一定の方向に導くことが「よい」ことなのか?
今自分はどんな感情を抱いていて、それは子どもに対する言動にどう影響しているのか?

自分のエゴに無自覚でいたくない。エゴを見つめた上で、それでも取りうるコミュニケーションの方法を探していきたい。
自分と他者との関係性の非対称性に無自覚でいたくない。厳然として存在する非対称性を見つめた上で、その中で非侵襲的なコミュニケーションの可能性を探していきたい。

「誰にとって」の話なのか

「○○はアリ/ナシ」っていったい誰にとってのアリ/ナシなのか。
「○○は常識」っていったい誰にとっての常識なのか。
「○○は有益」っていったい誰にとっての利益なのか。
「○○は有害」っていったい誰にとっての害なのか。
「○○したほうがよい」っていったい誰にとってよいのか。
「○○しないほうよい」っていったい誰にとってよいのか。
「○○しないといけない」っていったい誰がしないといけないのか。
「○○してはいけない」っていったい誰がしてはいけないのか。
「○○は優しい」っていったい誰にとって優しいのか。
「○○は寂しい」っていったい誰が寂しいのか。
「○○したら人生終わり」っていったい誰の人生が終わるのか。
「○○したら幸せになれる」っていったい誰が幸せになるのか。
「○○は困る」っていったい誰が困るのか。

世の中で交わされる言葉の主体・客体は往々にして曖昧だ。
ときには支配-被支配の関係性を隠したり、商業的な目的を達成したりするために、主体・客体や自他境界が曖昧な言葉が発されることもある。
そうした言葉やその奥にある意図を私たちは注意深く見抜いていく必要がある。
そして、自分のテリトリーを侵す言動(上っ面だけは優しい体裁をしていたりする)に対してはMind your own business!(余計なお世話だ)と言っていく必要がある。
そうやって、自他の境界を尊重する姿勢を大人が積極的に見せていくことこそ、真に「子どもにとってよい」といえるのではないだろうか。



※1:後方支援部隊をやっているため、子どもと直接関わることは今のところない。正直、子どもと直接関わることなく、でも子どもの福利向上に尽力できる今のポジションが自分としては安心感がある。


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