【感想】ニーアオートマタをクリアしたら人間らしくありたいと思った
やりました。ずっと積んでたんですが、やっとクリアしましたね。感想書きます。(2年前くらいのゲームです)
オープンワールドの難しさの話の後、ゲームストーリーの感想の話をしますね。
◆オープンワールドのゲームってつくるのはもう難しい
ニーアオートマタ、いわゆるオープンワールド形式のゲームなんですが、『ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド(BotW)』が出て以降、オープンワールドのゲームってもう、ハードル高いですよね。
オープンワールドゲームっていうのは、いわゆる決められたルートをたどるモノではなく、ワールドマップがあって、そこを自由に駆け巡ることができるゲームのことです。
知らない人に言っておくと、このゼルダの伝説BotWって、マジでやばいゲームなんですよ。オープンワールドを、完成させてしまった。やりすぎ。
九九を頑張って覚えたと思ったら、「インド人は100の段まで覚えてる」くらいの衝撃です。
せっかく切磋琢磨して九九覚えてたのに、もっと次元が違うところを見せつけられたし、確かにそっちの方がいいけど、いや無理言うなよ、みたいな。
BotWは行きたいと思ったところ全てに”本当に”行けるし、そこに何かしらの意味があるんです。やばくない?
BotWはリリースの2週間前に社員400人で2週間デバッグして、全てのアラを探し尽くした、というのは有名な話。どんだけ作りこむねん。
遠くにみえるアホほどでかい山にもてっぺんまで登れるし、崖の影にある隠された洞窟の中にも入れる。しかも、ただ「行けるだけ」じゃなくて、そこにはアイテムやイベントなどが必ずあるんです。手のひらの上で遊ばせてもらっている感覚。最強。
それに比べると、ニーアオートマタはちょっと落ちます。(BotWが最強すぎる)
オープンワールドゲーム、としてはね。
登れそうな岩に登れない、抜けられそうな道を抜けられない。ここが割とストレスフルです。冒険の出来る範囲がゲーム的に決められているので、「結局なんもないんかい」があると、「ゲームへの没頭」が少し薄れるので。
でもまあ、普通は、そうなんですよ。オープンワールドゲームって。でも、BotWが誕生してしまった世界線の我々は、その事実から逃げられないのです。
これは、ゼルダの伝説が、完璧にやり過ぎた。それが悪い。ニーアオートマタはなんも悪くないです。
◆ニーアオートマタの物語の感想
このゲームの舞台は、荒廃した地球。
エイリアンに襲われ、そのエイリアンが産み出したロボット達が支配する地球が舞台です。人間は地球から逃げ、月に移住して復讐の機会を待っている、という世界観です。
人類側はロボット達(機械生命体)に対抗する為にアンドロイドを産み出して、地球を取り戻そうと頑張ります。
そのアンドロイドの2B、9Sが主人公ですね。
これが2B。いいキャラデザしておる。
これが9S。
2Bが戦闘タイプ、9Sが調査タイプ。彼らは現地のアンドロイドと協力しながら、地球を奪還しよう、という訳です。
このゲームの面白い所は、「自我を抱える矛盾」を描いていることにあります。
2B、9Sは調査を進めていくうちに「機械生命体が感情を持ち、人間になろうとしている」ということがわかるんですね。「機械が感情をもつことなんてない」とアンドロイドたちは言いながら、機械生命体を破壊していく。
ここ、面白いです。
機械生命体には人間の様な感情がない、とアンドロイドは言っていますが、アンドロイドも感情はありません。
アンドロイドのタイプに固有の性格、というのはあるので感情的な部分を持っていますが、あくまでアンドロイドなので「心」はないはずです。
しかし彼らは機械生命体と戦う内に、アンドロイドとしての命令や判断と比べると、不合理な判断をしていく様になる。つまり、心のようなモノ、自我を獲得していく訳ですね。
ここで思い出さられるのは、これもまた名作ゲーム。「Detroit Become Human」ですね。
これもアンドロイドが感情を持ち、独立するというお話です。
2つに共通するのは、「自我を持つことへの肯定と警鐘」です。
支配から解放され、自由になったからこそ生まれる苦悩や葛藤とどのように付き合っていくのか、ということを描いているんですね。
ニーアオートマタでは、本来心を持たないアンドロイドが、敵である機械生命体の変異を気味悪く思いながらも、無自覚に自我を持っていく、という矛盾を抱えてストーリーが進みます。
心を持っていない(はずの)機械生命体は”人間”になろうとしているが、”人間”に生み出された自分達は、いったい何者なんだ?と。
これ、昔のゲームなのでネタバレしますが、実はもう月面にすら人類は生きていないんです。そして、地球上のエイリアンも、もう死滅している。
人類VSエイリアンの代理戦争だった彼らの戦いは、「アンドロイドVS機械生命体」に置き換わっているんですよ!
意思を持たない(命令を遂行する存在=自分の価値は他人の為にある)存在であるアンドロイドと機械生命体は、結局、自分たちの「心」に従って争う訳ですね。
自分達を作り出し人間、エイリアンはいないわけですから。
人類がいない、と事実を知った9Sも「命令を下している人類がいないならもう争う必要もないか」と、考えすらしませんでした。
9Sは、2Bを死に追いやった機械生命体を敵視し、「機械生命体とA2を殺す」とまで言います。(声優は花江さん。演技がスゴイです。最初は小生意気なかわいげのある少年、だったのが、怒りを露わにするまでの説得力が演技で補完されてます)
つまり、9Sの「心」で戦争は継続されている訳です。感情をもってはいけない、アンドロイドによる「怨恨」による戦争です。
ここの立場の逆転や感情の流れがうまく物語に配置され、説明しすぎず、説教臭くならず、ドラマティックに描かれます。楽しい。まじでおススメのゲームです。
前述したデトロイトはまさに「人間ではないモノの感情の是非と受容」というテーマを突き付けてきますが、ニーアオートマタはもう少しこれをファンタジックに、かつドラマティックに描くわけです。オモシロイですよ。
◆ニーアオートマタが描いてたモノ
この2つのゲームが発売された時、AIが発達して人類を超える「シンギュラリティ」がかなり話題になっていました。
なのでこの2つのゲームが似たことを描いているのは必然かもしれません。アンドロイドが感情を持ったIFの世界の話、というところですね。
でも、もっと卑近な例で考えると、「誰かの大きな意思や決定に従わず、自由であることの不安」という現代の問いにもつながりますよね。
個人の決定やマスの意識が低下して、連続性のない社会で生きる我々は、いわゆる「アンドロイド」や「機械」のように、誰かに支配されて生きている訳ではなく、自由に生きられるようになりました。
翻って、自分の感情や意思を尊重する世界です。
しかし、「個人を尊重しよう!自由に!」と個人主義を礼賛しているにも関わらず、やはりまだまだ「世間」や「社会」が持っている制約やルールがあって、そこを意思のみで突破することはできません。
ブラック企業の労務問題、芸人の事務所問題、が顕著ですかね。誰かに支配されるべきではない、とみんな言っているものの、「組織に反抗するモノ」を、未だに叩く風潮は残ってますよね。
まさに、人間の支配下にあるアンドロイドが自由になっても、そこにはまだまだ障害(=敵)がある、ということは、この現代の社会を映しています。
いわゆる社会の規定から外れたモノは、自由であるとともに、「生きづらさ」がある世界なんですよね。
体制側からの、支配しきれない恐怖と、支配を逃れ、自由に生きたいと思うモノの恐怖。
ここらへんの社会の空気が、アンドロイドというものを媒体にして出てきているんでしょうね。
そこらへんを考えてました。
あと、自分の感情に素直になって突き進む、ということ行動自体が「人間らしい」一方で、この社会に住む人間にとっては「人間らしくない」という矛盾もあるなとも思いました。
己の心のままに進む難しさ、あるよな。
2010年代後半に出たゲームですが、新自由主義の限界を抱えた社会空気を描いていて、大変すばらしかったです。
以上です。