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映画『葬送のカーネーション』深田晃司監督トークイベントレポート

2024年1月12日(金)より、ラビットハウス配給で全国順次公開中の映画『葬送のカーネーション』。公開初日、ヒューマントラストシネマ有楽町にて本編上映後に深田晃司監督のトークイベントを実施しました。
深田監督と司会を務めたラビットハウス代表の増田とのやり取りの模様をお届けします!


"メメントモリ”を描いた最新芸術としての『葬送のカーネーション』

深田監督: 一度モニターでは見させてもらっていたのですけど、スクリーンで見たいと思い、今日も見させてもらいました。やっぱり良かったですね、すごく。増田さんが海外の作品を初めて配給するっていうことでしたよね。

増田: そうなんです。ラビットハウス初の海外買付作品でございます。

深田: それを聞いて、初の海外作品に選ぶにはなんてチャレンジングな作品だろうと思ったんです。

増田: チャレンジングってのは、お客さんがこないかもしれないってことですかね(笑)

深田: いやいや(笑)。ただ、わかりやすくキャッチーな作品ではないなと思ったので。集客云々じゃなくて、非常に挑戦的なことをしてるなと思ったんです。テーマとしてはすごく普遍的な、個人的にはとても好きなものでした。
結局、この作品は死をモチーフにしていると自分は思っていて。それをこれだけ正面から扱う監督の姿勢にとても親近感を覚えます。もちろん、この映画には紛争や難民の問題というような強固な背景があるのだとは思いますが。結局、生まれてしまうことの苦しみというか、人が生まれて死んでいくっていう、それ以上の悩みってあるのかなっていうことは本当によく考えていて。

自分が映画学校に入ったのが1999年で、そこで初めて学校に映画の企画を出さないとという時に提出した企画のタイトルが『メメントモリ』だったんです。いつの間にかよく知られた言葉になりましたが、そのころはあまり聞かなかった。それは妻を病気で亡くしてしまった老人が、延々と街を徘徊して、死にまつわるいろんな出来事に遭遇していくという内容で。今思い出すと結構この『葬送のカーネーション』に近かった気がします。

自分が「メメントモリ」(※「死を想え」という意のラテン語)という言葉を知ったのは、画集で見たミレーの絵でした。ミレーっていうと『落穂拾い』みたいな、比較的牧歌的で穏やかなイメージが強いと思うんですけど、1枚、すごく異様な絵があるんです。その絵では農夫が死神に肩に手をかけられてまさに崩れ落ちる、みたいな瞬間が描かれています。その絵に添えられた解説で「メメントモリ」という言葉が紹介されていて、これはその当時、伝染病などによって死者が多かったっていう切実な世相も反映されているようなんですが、その言葉は実存について悩みまくっていた思春期の自分にとても刺さりました。今でもずっと悩んでます。
本当に、人類ってずっと死を描き続けていると思います。結局私達にとって、「いずれ私は死んでしまう」ことこそ最大級の問題で、そこに対してどう向き合っていくかっていうことですよね。例えば宗教なんかは、すごく強力な答えを出してきたと思うんです。人間も動物もみんな死んでいきますけど、未来にある自己の死を認識できる生き物ってのはほぼ人間しかいないらしいんですよね。でもそれって本当に余計な進化だなと思うんです。そのせいで私達はいずれ来る死に怯えるわけで。

しかもこれが厄介なのが、確実にそこにあるのがわかりながら体験不可能なわけですよね。私が死ぬときに私はもう世の中にいないわけで、体験不可能な未知なものであるからこそ、私達は死について考えてしまうし、やっぱり恐ろしいと思うし、いろんな向き合い方をせざるをえないわけですよね。

そこに対して信仰は、ひとつの具体的な回答を与えてくれる。死は終わりではない、本来そこでゼロになってしまうはずの生のその先にはさらに別の世界があるんだと、ものすごく強烈なファンタジーを人間に信じ込ませたんだと思います。人類の防衛本能が生み出した切実な回答が宗教なんだと自分は思ってます。ファンタジーというと絵空事みたいですけど、それは私には信仰がないからに過ぎなくて、それは本来すごくリアルなはずなんですよね、信仰を持ってる人にとっては。そういった信仰を持てる人の強さには憧れますし、その切実さは笑ってはいけないものだと思っています。

いずれ私たちは死ぬけど、死は体験できないからこそ、芸術家は巨大な虚無を前に足掻くように死を描き続けてきた。ミレーの絵もそうですし、シェークスピアも各国の伝承も死を描いている。宗教画や宗教音楽はその壮麗さによって宗教的ファンタジーを人々に実感させてきました。そういった芸術作品を通じて、生きてるうちに死を仮想体験し心を少しづつ慣らしてきたわけです。この『葬送のカーネーション』も、人類が何千年と描き続けてきたメメントモリの芸術の、最新の作品の一つなんだろうなと思います。

おじいさんの理不尽に付き合わされる、ハリメと私たち鑑賞者

深田: そういった気持ちで見ていると、死が不条理であるように作品中の不条理さもすごいなと思っていて。あの女の子、本当に不条理ですよね。おじいさんの気持ちは分かるのだけれども、女の子にとっては存在も行動も不条理そのものでしかない。

あれも結局、「誓いを立てたからその故郷に帰って埋めてあげたい」っていう、おじいさんにとってはある種の切実な宗教的なファンタジーをリアルに完結させるための必要な行為なのだと思います。

土葬をするといっても、土だったらどこでもいいってわけにもいかないわけで。宗教的なファンタジーさえも、紛争という不条理によって阻害されてしまっている状況が非常に痛々しいなと思うんですけど、さらにあの女の子は、宗教的なファンタジーを完結させたいっていうおじいさんの思いに付き合わされている。引き取り手がいないから仕方ないにしてもかわいそうですよね。難民であるというだけですでに不条理なのに。しかもあのおじいさん、結構横暴だし(笑)。有無をも言わさずついて行かされて、棺を運ぶのも手伝わされて、大切なおもちゃも壊されて。

この作品が、作劇的に非常にチャレンジングだと思うのは、おじいさんが何で国境を越えたいと思っているのかがほぼ説明されないんですよね。最後の方でやっと婉曲的に明かされるっていう。だから観客は見てる間「一体何に付き合わされてるんだろう」という多少のストレスを抱きながら鑑賞するわけです。それは作劇としては不親切ですが、だからこそあの女の子と同じような気持ちを体験し同じ目線で映画をみられるわけですね。本当にああいう説明しない大人っていますよね(笑)。職場とかでも何も説明しないのに、失敗したら怒るみたいな。

増田: 『葬送のカーネーション』の監督が後から言っていたんですけど、この作品はハリメの目線なんですね。

深田: それはすごく成功してると思います。理不尽なおじいさんにひたすら付き合わなきゃいけない。でもそれがあるから、最後圧巻だなと思うのは、トラックに乗って国境に向かっていくときに、何か時間が遡っていくように、その国境から難民の人とすれ違っていく。あの夜の車中の場面は本当に素晴らしいですね。
そこで、死と生きる意味について議論をするラジオ放送が流れる。かなりストレートにこの映画は死について描いていることが示されていて。死について描くというよりも、結局、人間が生きる意味なんてないんだっていうような、生きる意味はないけど生きていることの悲しみのような、ものすごくニヒリスティックな考え方。いやそれでも歩み続けることに価値があるっていうようなポジティブさではぬぐい切れないような虚しさ。そういったものがあのシーンで一気に噴出していたように思います。そこからラストにかけてが本当に圧巻で、あのラストのためにこの映画があったんだなと思います。

そして、このラストの瞬間のためにこれだけお客さんに負荷をかけるっていうのは、作り手としてなんて挑戦的なことをしてるんだろうって思います。おじいさんが国境を目指す目的をもうちょっと早めに提示すれば見やすくなるはずなんですよ。でもそれでは、不条理に延々と付き合わされている感覚だとか、そもそも生きること自体が不条理であるみたいな感覚そのものをバーチャルに体験させてくれる時間にはならなかったんだろうなと。そういった意味でものすごくチャレンジングだなと思いました。

増田: 本当に配給も含めてチャレンジングでした(笑)。でも、深田監督からこんな話を聞けて「この映画買ってよかったな」って今の瞬間さらに思っています。本当にありがとうございます。

この映画、2022年の東京国際映画祭で上映されていて、権利元の方に「どうですか」ってみせてもらったんです。難しいなと思ったんですけど、うちのスタッフが、「これいい映画ですね」って言ってたんですね。結局その後、ベルリン国際映画祭のマーケットでサインしました。

直感的に素晴らしい映画だなっていうのは感じていたんですけど、最初の東京国際映画祭で見たときはそこまで理解していませんでした。でも宣伝のために改めて見直していくと、どんどんどんどんハマっていて。見れば見るほど深まるんですよね、この映画。(お客様に対して)皆さんも、あと10回ぐらい見ても、全く耐久できる映画だと思います。ぜひまた見ていただきたいと思っています(笑)。

深田: この映画見て、やっぱり「何か物を運ぶ」アクションはそれ自体がすごく映画的なんだなとも思いますね。本作の監督も、生と死とか、もちろん紛争とかいろんなことをイメージしてると思うんですけど、この映画いけるなっていう核になったアイデアは、おじいさんが棺を運んで担いで歩いているっていう、そのイメージひとつにあったんじゃないかなと思うんです。

自分が二十歳のときに初めて作って、もうほぼ封印している『椅子』という習作の自主映画があって。老人が椅子を背負って徘徊しているという映画なのですが、そのアイディアの基になったのが、イランのモフセン・マフマルバフ監督の『ドア』という短編です。その話は老人がドアを背負って理由もなく砂漠を歩いているっていうものなのですが、何かを背負って歩くって、すごく映画的なんだなと。それを初めて実感したのは、ロマン・ポランスキーの短編『タンスと二人の男』でした。何かを担いで歩くって、それだけでいいなって思います。

「映画は世界を知るための窓である」ー今の時代に『葬送のカーネーション』を配給することの意味

深田: 今回のような、配給会社の方とのトークって珍しいことなので、自分としては本当にこの場を借りて感謝したいんです。洋画の中でも、ほぼ確実に日本で配給される、あとはそのビジネスチャンスを誰が掴むか、という鉄板な作品もありますが、この『葬送のカーネーション』はそうではない、少なくともシネコンだと絶対かからないタイプの作品ですよね。でも、こうやって今私たちは日本語字幕付きで映画館のいい上映環境で見ることができる。それは、こうしてこの作品を発見し買い付けて配給してくれる人がいるおかげだと本当に思います。

高校のときは全然お金がなかったんで、ケーブルテレビでばかり映画を見ていました。それが自分が映画を好きになったきっかけでした。90年代にケーブルテレビで流れていたのは、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』とか、そういった当時、ミニシアターでかかっていたようなものでした。そういった作品も、買い付けてくれる配給会社があって、それがミニシアターで上映されたおかげでケーブルテレビでも見ることができて。それで自分は映画監督になりたいと思えたわけです。

今は洋画より邦画の方がお客さんが入ると言われています。でも一方で、海外の作品の配給が非常に保守的になってはいないだろうかと心配です。映画の果たす大きな役割は世界を知るための窓になるっていうことがあると思います。リュミエールが19世紀末、フランスで映画を発明して、それが評判になって最初にやったことって、世界中にカメラマンを派遣して、撮影して、パリに持ち帰らせて上映するってことだったんですよね。その当時、今以上に世界旅行は難しかったので、それがさらに評判になっていった。

そういった「世界を知るための窓である」という映画の原初的な役割って、今も本質は変わらないと思っていています。YouTubeになってもTikTokになっても、映像がある限りいろんなものが見える。海外で若者がダンスをする様子も見られるし、ガザやウクライナで何が起きてるのかっていうことも、映像を通して知ることができる。『葬送のカーネーション』も、これだけ2時間たっぷりと、トルコの景色だったり、宗教観みたいなものを見ることができるし、監督の哲学や世界観に触れることのできる、すごく貴重な時間だと思っています。これができるのも、やっぱりチャレンジングな配給をしてくれる配給会社があってのことだと思います。こうした作品を輸入してくれて、本当にありがとうございます。こういった映画を扱う多くの配給会社、映画館こそ公的に支えられるべきだと思います。


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