毎日、日記とnoteを書くこと
日記を高校の時から毎日書いている。何年と書くと、計算が苦手な私の中の人が混乱するので、結構長いこと書いてると、お茶を濁しておく。
最初の頃の日記は、苦しいこと日記だった。苦しいこと、辛いこと、理不尽なこと、高校生だからいくらでもあるだろう。
誰かに言おうにも、誰に言ってよいやら分からないとか、思春期だよなぁといえる思いを抱えて、日記にそれらを書き連ね、発散していた記憶がある。
三十日日記が続いたらとか、三年続いたら何者かになれるとか、三十年続いたら何者かになっているとか、なんかよく分からない指標がある。迷信だと思うけど。興味がないために、数字や内容がうろ覚えで、とてもいい加減。詳しくは知りません。
たぶん、私が結構長いこと日記を書き続けているのは、何日続いたとか、何者かになるとか、どうでもよかったからだと思う。
日記に意味を求めて、例えば、何者かになるためのステップと思って書いていたとしたら、続かなかったんじゃないかという意味。
日記そのものに執着し、日記という、自分の気持ちや日々を自分の字や言葉で書くことが、私にはかけがえのないことだったから、日記というものが、今に続く日常になったのだろう。
例えば、日本で毎日お風呂に入るということが、なかば社会ルール化しているのは、日本人が、毎日お風呂に入る科学的効能がどうとかいう前に、お風呂は毎日入ると気持ちが良いとか、そういうものだと思っているから。水道事情が悪かったり、「お風呂って毎日入らないとだめなの?」という文化であれば、お風呂は自然と日常から遠のく。
かなり前にはなるけど、イギリスで"'pretty good(すっごくいい感じ)''と言われたシャワーの水流が、日本のシャワーで言うところの、しょぼしょぼ水流だった衝撃は忘れられない。「冬にこんなじゃ、風邪ひくわ!」と思ったけど、お風呂やシャワーは、パーティーの前にLUSHのボムを入れて楽しむだけと、普通に言う世界では、しょぼしょぼ水流で十分だし、お風呂に毎日入る意味や価値が重要でなければ、お風呂やシャワーの快適さへの価値も下がる。
例えが長くなってしまったけど、日記とて同じこと。
その価値や意味が、その人にとって重要でなければ、または、獲得できるか不明な未来の賞賛(何者かになるとか)を得るための苦行であれば、日記は続かない。
noteだって、毎日続けるとバッチがもらえる仕組みはあるけど、それがどうしたというと(元も子もないけども)、どうということもない。フォロワーが増えるとか、記事のスキが増えるとか、続けていればそういうこともあるのかもしれないが、それが目的だった場合、もしなかなか達成できなければ、やる気はどんどん下がっていくものだ。自然noteは続かない。
何かを続けることに、きっと意味はない。
やり続けることには意味がないけど、やっていることに意味があるから続く。
やり続けることが、楽しいとか(たとえ名誉欲であっても)、その人の中で理由が整えることができれば、日記やnoteは続くのだろう。
毎日することに気合を入れなければできないことは、続かない。やりたいことだと思ったり、やって楽しいと思うとかのメリットがなければ、続かない。それは、よく知らないけども、人間の行動心理じゃないのかなと思う。理由もないのに、楽しくもないのに、毎日やるなんて、辛いだけ。
でも、日記もnoteも続けなければならないというものじゃないから、それでいいのだ。
私は今のところ、noteを毎日更新できているけど、(プロフィール欄にある)将来文筆家になれるのかなんて分からないし、まあそれでいいやと思ってきている。文筆家になるためだけのnoteでなくなっているのは、確か。それはそれで良きかな。
【余談】
他の方のnoteを見ていると、よく自分の過去の記事を、参照あれとリンクが貼ってあったりするけど、よく覚えてるなぁといつもいつも感動する。私は更新したそばから(昨日の記事さえ)、内容を忘れる。私が忘れっぽいのかもしれないけど。。。
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