自己肯定感が低過ぎる女の快復までの道のり
突然だが、私は自己肯定感がめちゃくちゃ低い。
低過ぎることから派生したあれやこれやが、現在の生きにくさにつながっていることに、つい昨日気付いた。
回復までの道のりとして、いろんなことを試し検証していく過程を書いていこうと思う。
私の生い立ち。
都内で働く30代女性
一昨年に結婚
地元は神奈川で、途中までは中流階級の家庭で育ったと思うが、後に父親の度重なる転職により生活は困窮したため、高校、大学は奨学金で通って卒業した。
学生時代はマイナーなバンドが好きになり、高校時代はバイト代でバンドのライブにばかり行っていた。
勉強は中学2年くらいからしなくなり成績は下がったけども、ギリギリ中間くらいの偏差値の公立の高校に入り、そこでももちろん勉強もせず、テスト前に慌てて勉強するタイプであった。
ところで、大学を受験するということ事態が私の頭にも、私の両親の頭にもなかったと思う。
思う、というのは確かめたかもよく覚えていない。
私の家庭が以前よりも困窮し出した頃があるのだが、世の中いろいろな所得の人がいて、果たして我が家はそうだったのか、どうだったのかははっきり判別がつかないのだが、
下記事象により、もしかして「うちの家やばいのでは?」と思ったことがある。
私が小学三年生くらいの頃に、父は勤めていた車のディーラーの会社を辞めた。
リストラなのかもわからないが、急に辞めてきたようで、母親がかなり動揺していたので相談せずに突然だったのかと思う。
小学三年生の頭では、どこまでやばいのか見当もつかないが、今まで専業主婦だった母親が働きに出ることになったので、家に帰ったら母が居ないということのほうが衝撃だった。
ほどなくして父は別の仕事に就き、(すぐ辞めたので内容はよく覚えていない)母は結婚前に働いていた銀行の仕事を始めた。
父は転職後、短い期間で辞めてはまた転職を繰り返した。
私は昼間家に帰って父が寝転がり、タバコを吸いながら新聞に挟まっている求人チラシを出しているのを見るたびに、「あぁ、また仕事辞めたんだ」とわかるようになった。
母の機嫌も悪くなるし、機嫌も悪くなって当然なのだが、失業している期間が長く何度も繰り返されるほど我が家に入ってくるお金はなくなるので、生活は苦しくなっていっていた。
母が陰でやりくりしているのも知っていたし、父への愚痴を聞くたびに、母の不安を少しでも和らげたいと思っていた。
体感としてすごい貧乏だと感じなかったのも、母が頑張っていたからだと思う。
それが良かったのか悪かったのか、高校を卒業したら働きたいとも思わず、進学は奨学金でなんとかなるだろうという楽観的な考えは抜けずにいた。
進学について
予備校に通うとお金がかかるから大学受験は頭になく、(勉強をするのも嫌だったからだと思うが)受験勉強をすることなく、推薦で行ける大学、または専門学校に絞って進学先を決めた。
当時ファッションが好きだった私は、原宿や渋谷に行ってはゴミみたいや古着や、チープな服を探しては買い漁っていた。
自分のファッションセンスは今でもないが、当時はとにかく派手にしていればオシャレに見えるのでは?と、ジッパーやキューティーといった雑誌に憧れては身につけていた。
そんなことから、進学先はファッション系の大学に運良く推薦で合格して進学した。
進学先が都内ということもあり、大学の授業が午後までだったりすると、母と待ち合わせてランチをしたりして楽しんでいた。
私は母のことが大好きだったし、友達と同じくらい遊びに行ったりしていた。
憧れのセレクトショップでのバイト
私は渋谷の有名セレクトショップでバイトを始めた。
母は私のやりたいこと好きなことを否定せずになんでも受け入れてくれて、やってみなよと背中を押してくれる人だった。
私が服屋さんでバイトしてみたいと言っても、やってみなよ!と背中を押してくれた。
その事が自信となり、有名セレクトショップのバイトの面接も臆することなく受けることができ、働くことができたのだと思う。
この頃地元のコンビニのバイトも並行していて、家に帰ってくるのは夜遅く、家に居る時間も少なくなっていた。
ちょうど夏くらいだったと思うが、働いていたコンビニで風邪が流行っており、わたしも風邪をひいた。
これがなかなか治らず、私が内科に行くと言うと母も体調が悪いらしく、一緒に内科に行って診てもらった。
私はただの風邪の診断で、母の診断は、調子の悪いと言う場所が今日の診断ではわからないといったような内容だったと思う。
後の精密検査でわかるのだが、母は胆嚢癌で既に進行している状況だった。
しかし私が知るのはずっと後だった。
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