腹一杯の上戸は飢えた下人の事を知らず。 日本軍はなぜ脚気病にかかったのか?
写真:おいしいカレーライス https://www.pexels.com/ko-kr/photo/674574/
短期記憶の喪失、体重減少、食欲低下、痛み、下半身がしびれ、手足の感覚が低下してうまく歩けない。呼吸困難、昏睡状態に陥ったり、死亡することもある。これはビタミンB1不足で起こる病気なので、食べ物をまんべんなく食べれば治る。
日露戦争時、日本軍は100万人以上が参戦したが、そのうち25万人がこの病気にかかったと言われるほど、脚気は日本に致命的な打撃を与えた病気だった。 脚気にかかった兵士はすべて陸軍だった。陸軍だけで25万人がかかり、2万7千人が死亡した。当時、日本海軍の中で脚気で死んだ人は数人しかいない。 なぜこんなに大きな差があったのだろうか?
1800年代まで、多くの日本海軍は脚気病に苦しんでいた。1879年、イギリスに留学していた「高木兼寛(たかき かねひろ)」(1849~1920)が帰国後、医務局部長に就任したことで状況が逆転する。彼が突き止めたのは、将校はほとんど脚気病にかからず、私兵だけが主にかかること、航海中にのみ発症し、港に停泊しているときは発症しないことだった。
高木兼寛郎は、栄養の不均衡が脚気の原因であると診断し、パンや肉シチューなどの洋食に海軍の食事を変えようとする。1884年2月から11月まで続いた筑波の航海で、脚気患者はわずか15人、死亡者は一人も出なかった。 代わりに彼がいかに雑穀を食べろと歌ったことから、雑穀を嫌う兵士たちから「麦飯男爵」と呼ばれるようになったという。
彼はイギリス留学時代に出会った、イギリス軍が食べていたカレーを日本人の口に合うように改良してご飯と一緒に食べさせ、ようやく兵士たちにも人気のある食事を開発することになったが、これがカレーライスだ。日本の海上自衛隊は今でも毎週金曜日にカレーライスを食べている(元々は軍用食として開発されたが、今日、カレーライスは日本で最も多く食べられている食べ物の一つになっている)。日本人のカレーに対する愛情は格別で、「カレーの日」(1月22日)があり、この日は全国の小学校でカレーが給食に出される). カレーライスをはじめ、海軍内部の食生活が多様化するにつれ、海軍から脚気はきれいに消えていく。
陸軍軍医部長だった「森林太郎(もりりんたろう)」(1862~1922)は、海軍の事例を聞いても、やはり脚気は栄養素の欠乏ではなく、病原菌によるものだと考えていた。 彼は非常に賢明な人だったが、実証された多くの事例を見たにもかかわらず、なぜそう確信したのだろうか。ハンマーを持った人の目には釘しか見えないと言われるように、森林太郎は細菌学を専攻していた。 彼の目には脚気が伝染病であるという証拠だけが選択的に見えていたようだ。 彼は脚気は栄養の不均衡のような簡単な問題が原因であるはずがないと考え、白米の配給を続けるべきだと主張した。
彼はドイツで勉強した留学派だったが、もしかしたらイギリスで勉強してきた高木兼寛を心の中で無視したのかもしれない。森林太郎は9歳からオランダ語と英語を身につけ、東京大学医学部を19歳で卒業した、彼の最年少卒業記録は未だに破られていないほど、彼は当時最も注目された天才であった。 軍医官時代にドイツに留学して帰国し、英語とドイツ語を流暢なレベルにし、軍人でありながら作家としても創作活動を行い、「森鴎外」というペンネームで日本近代文学の第一人者に選ばれるほど大きな名を残した。軍人としては誤った判断で多くの私兵を殺したり、病人にした悪いリーダーとして歴史に残りましたが、文人としては日本の近代文学をリードした最高の巨匠として位置づけられています。
陸軍の森麟太郎と海軍の高木兼寛は、それぞれ騎兵隊に対して反対の立場をとることになった。海軍がその問題をすでに解決した後でも、陸軍は海軍を真似ることができないというようなプライド(!)で森麟太郎と陸軍の意思決定者たちは頑固になり、その結果、多くの陸軍士兵が脚気病に苦しみ、すべての脚気患者は陸軍だけであった。
森林太郎には、自分や自分の周りの将校たちの食事に栄養バランスの問題があるように見えなかった。実際、将校たちは米飯以外にも様々なおかずを食べてビタミンを補うことができたので問題はなかった。しかし、私兵たちは本当に米飯だけを食べていたため、栄養の不均衡、ビタミン不足による健康上の問題が生じたのだ。
では、なぜ私兵たちは米飯だけを食べたのだろうか。 彼らは皆、一家の家長だったからだ。当時、日本軍はおかずを配給するのではなく、各自が購入して食べなければならなかったので、ほとんどの私兵はそのお金を節約して後方の妻と子供のために家に送るため、最低限のおかずだけで食事をしたのだ。大根一切れ、醤油...」のように表現された当時の文章を見ると、兵士たちは極めて劣悪な栄養状態に置かれていたことが分かる。
現場のユーザーの事情を知らないエリートが政策を決定すると、このような問題が生じる。米でも供給状況が悪ければ、むしろ雑穀を食べて兵士たちは健康を回復したかもしれない。 しかし、当時、米は朝鮮のものを奪った結果、戦争中なのに食糧配給に何の支障もなく、それが結果的に日本兵士たちの脚気症を助長した。歴史の皮肉といえるだろう。
森林太郎自身は、細菌を避けるために果物さえも煮たり、ゆでたりして食べ、他人の入った風呂に入ることも非常に嫌がったという。そうやって自分の健康を気にしていた割には、おかしなことに肺結核で命を落とす。
生前の彼の立場がいかに頑固であったか、1922年に彼が亡くなってから、1923年に陸軍は食生活の改善を行うことができ、敵軍よりも日本軍を苦しめた脚気もようやく消えることになった。これは歴史に残る、知識の呪いに値する事例となった。
ユーザーの立場を知ることは難しい。
満腹のプロバイダーャであればなおさらだ。
再デザイン, 2020, ユン・ソンウォン
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