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児玉まで

車谷さんの小説の中でなにが一番好きかと言われると、そのときどきによってけっこう変わります。
なので、『児玉まで』も一番というわけではないのですが、なかなか好きなほうです。
有名になってくる前の小説で(38歳のときに執筆された様子)、それほど長くも華々しくもないのですが、ところどころにはっとする言葉がでてきたり、はっとする描写があるのです。
例えば、

「私は現在のことや将来のことを考えるのが苦手、というより殆ど苦痛に近い。だからなるたけ考えないようにしている」

「競馬や宝くじに「いいこと」を求めるほかに何も心ときめくもののない、サラリーマンの社会で、私はその日その日、己を葬りながら生きている」

「行き先を確かずに乗ったのは、電車のときと同じだった。何か危なっかしいことをやってみたいのに少しもそんな手応えがない」
(本文より)

こんな文が出てくると、ああっ、と思います。
勤め人をしていて、一度もこういうことを思わず、まっすぐ前向きに向上していこうということだけ考えられる人って、いるんでしょうかね。
特に今は、「何か危なっかしいことをやってみたいのに少しもそんな手応えがない」という一文が、なんだかとても共感できる気がします。年をとったからだろうか……。


またこの作品では、「果たされなかった約束」というテーマが、うまく書かれています。

果たされなかった約束……、スカボロフェアや、チューニョの花の咲くころもそんな歌ですよね、というのはまあいいとして。
小学生や中学生のころに、ちょっと仲良くなった異性の友達がいて、一緒にどこどこへ行こうなどと話していたけれどもけっきょくその約束は果たされなかった、もし一緒に行っていたら忘れているかもしれないけれども、果たされなかったがゆえにいつまでたってもひっかかったようにどこかに残っているような、そんな約束の大人バージョンといえるでしょう。
(車谷さんの小説で、果たされなかった約束高校生バージョンの話がありますが、あれは相手が殺人事件に巻き込まれてしまって待ち合わせ場所に来れなかったという、なんだか衝撃的な展開すぎて……、さすがにそれはあまり一般的ではなさすぎて、また次元が違ってしまいますが……、約束して、すごく楽しみにしていたのに期待が裏切られるって、なんだかずっとそのときのことはずっと忘れられないです……)。

「何もない、町なのよ」
「何もない?」
「そう、何もない町」

  …………

「実は私も児玉には行ったことがないのよ、だからよく知らないの」
「はあ、行ったことないのに、何もない町なんですか」
「そうなの」
(P161、162より)


児玉は埼玉県にあり。頼子(居酒屋で偶然出会った女性)が中学生のときに、歯医者の待合室で見た雑誌に載っていた町でした(出た、中学生!)。
そういう記事に心惹かれてしまう中学生、この人すごく寂しい人なんだな、ということがなんとなく思われます。取り残された静けさ、とでもいうかのような。

二人とも、間違えてもディズニーランドへ一緒に行くような間柄ではありません(当時ディズニーはなかったですが)。
知り合ったばかりの二人が一緒に歩くのは、こんなところです。

 椚や橅に烏瓜の絡んだ 岨道になった。葉のちぢれた汚い紅葉だ 突然、神社の石鳥居の前へ出た。鳥居の上へ放り上げられた石を見上げながら、石柱の荒い肌を撫でた。 
 道が自然に高い土手の上へ出た。目の前は幅が三十間ほどの川だ。ゆっくり流れる深い水を湛えた運河、という感じの川だ。 水の手前の方は濃く、その先は夕陽を反射してさざ波立ち、 黒く黄金色に輝いている。土手の斜面は荒地草の蔦と葉で埋まり、道の両側は枯れ始めた豚草や明治草など帰化植物だらけだ。向こう岸の土手の上を、一台のダンプカーが土埃を巻き上げて走って行くほかに人気はなく、蚋や蠛の群れが顔や手にまつわり付いた。頼子が顔をしかめて、しきりに目の前を払うが、払えば払うほど蚋は血を求めてまつわり付いてくる。

いい年した大人が、最初のデートで好き好んでいくようなうな場所とはいいがたいでしょう(ここでも示し合わせて来たのではなく、偶然来た、というような感じでしたが)。
この、帰化植物の名称を丁寧に書いているところとか、ちょっと片田舎へ行けばいまでもどこにでもあるような風景(荒れているというか、あまり人に顧みられず手入れされずにいる空き地とか、人通りの少ない道とか、すぐに帰化植物がはびこりますよね)、そういうのが日本の原風景というか、なんとなく懐かしの風景のようになりつつあります。
帰化植物がなかったころ(何時代なんだろう、一応明治の前くらいを想定?)の空き地がどんなふうだったかはわかりませんが、日本人に西洋の思想や文化がもたらされて、豊かになった面もあれば、なんだかこんな荒地のようになってしまった部分もあって、そんなことを示唆していると言ったら言い過ぎでしょうか。

ここからはネタバレを含みます。





けっきょく最後は、児玉へ行こうと約束したまさにその日に、語り手が頼子の恋人に電話をかけて、彼女を引き取ってくださいと言うことになります。
自分で約束をぶち壊す、とも言えますが(なんだか、ポルノグラフティのメリッサの出だしを思い出してしまう……)、恋人を振り切ってでもついてきてくれるくらいでなければ一緒に行きたくない、二股はごめんだ、どちらかを選べ、と暗に言っているのかもしれません。
そうして待ち合わせた喫茶店で、頼子の恋人に「君はもう帰れよ」と言われて、語り手は一人雨の中を去って帰っていくのでした。

解説にもありますが、『赤目四十夜瀧心中未遂』の萌芽は歴然としている、とのこと。
『赤目四十夜瀧心中未遂』では、主人公はヒロインと一緒に約束の場所までたどり着きます。それは、主人公が仕事をしていなかったということも、社会的な居場所に縛られることなく、より自由というか、失うものがない状況だったことも関係しているのかなと思います。
仕事を捨て、今風の言葉で言えば断捨離して、それで自分に必要な新しいものが入ってきたといえるとも思います(と言いながら、最後はお別れしてしまいますが)。
児玉までの語り手はまだそこまで捨て身ではないため、もっと深いところにある真実にはたどり着けないで、なんとなく自分の手でその道を閉じてしまう、戻ってこれなくなる前に引き返してしまっているとも言えるかもしれません。読んでいるほうとしては、児玉へ行って二人がどんなやりとりをするのかとか、どう感じるのかとか、ちょっと見てみたかった気もしないでもないです。この終わり方もこれはこれでよくはありますが、確かに続きが読みたいと思いはします。
しかし、同じようなテーマでありながらも、その先までたどり着いた『赤目四十夜瀧心中未遂』は、続き云々というよりも、読み切った、という感じがあり、続きが読みたいという思いはそんなに沸いてこないと思います。だからこそ、直木賞をとるほど多くの人を魅了できたということなのかもしれません。

これは、去年の10月30日に書こうと思って草稿を練っていたのが、実際書くまで一年近くかかってしまいました。
なにがそんなに忙しかったのかな……。

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