ルールを修正できるルールがあること。それが民主主義と法治主義の基本。
今回は「#みらいの校則」をテーマに、学校の校則やルールにまつわる新しいアイデアについて書いてみようと思います。
私自身は、小学校の児童として、中学校・高等学校の生徒として、大学生・大学院生として「学ぶ側」の立場と、小・中学校と高等学校の教員という「教える側」の立場の両方をバランスよく(?)経験してきました。
その経験から言うと、最も必要なのは「ルールを変えるルール」が明文化されていることだと思います。
変えられないルールほど怖いものはない
最高法規である日本国憲法というと、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3つは中学校の公民で必ず学ぶわけですが、実際のところ本当に重要なのは、第96条の「改正」が記述されていることそれ自体ではないでしょうか?
しかも興味深いことに、日本国憲法が最高法規であることは、第97〜99条に書かれています。改正の項目の方が先なんです。
2021年時点では現憲法が改正されたことは一度もないのですが、この条項は憲法が最高法規ではあるがベストな法とは限らないという前提に立っており、これが明文化されていることこそ重要でしょう。
仮にある時点ではベストなルールだとしても、状況の変化によってベストではなくなる可能性はあります。そんなとき、もしルールの方を柔軟に変えることができなかったら、色々困ることが出てきます。ましてや、ルールが明文化されていなければ直しようがありません。
また、ルールが明文化されていない組織は、だいたい声の大きい人によってルールが形づけられてしまいます。
翻って、学校の校則はどうでしょう? 身分証と一緒に校則が明文化されていればまだマシです(この時点でほとんどの小学校は該当しないはずです)。明文化されている場合、ルールを変えるルールを見てみましょう。なければ、生徒や学生の代表がすぐにでも行動を起こすべきです。
学校の場合、まず児童・生徒・学生と教職員の身分は平等ではありません。そして、校則を作ったのは教職員だと思われがちですが、実際には人事異動があるので、誰がその校則を作ったのか教職員にすら分からなくなっている場合も少なくありません。
そのあたりの確認は「附則」が後ろについてあるかどうか要チェックです。
ルールを変えるのは超大変
私も高校生のときにルールを変えるために動いたことがあり、非常に苦労した思い出があります。
高校生のとき、運動会の実行委員会に所属していたことがありまして、競技の審判にあたる役割を担っていました。その時の実行委員会のポストは非常に不自然なものでして、100m走を例に取ると、スタートライン、グラウンド、ゴールの決審の3つの役割がバラバラに割り当てられており、本来必要のない無駄な人員が割かれていました。
実行委員会のポストに関するルールは私が調べた範囲では根拠になるものはなく、翌年度のために3つの役割を1つにまとめ、時間と人員の無駄をなくすことを生徒会に提案しました。
いや〜、すごく嫌がられましたね(苦笑
ポストに関するルールがないように、「ルールを変えるルール」もないわけです。ですから誰もルールの変え方が分からない。投票して決めるのか、協議して決めるのか、それすらもはっきりしていませんでした。だから生徒会には「こいつ、めんどくさい話を持ってきやがって!」と思われたに違いありません。
その時の話は、最終的に私のゴリ押しで説得し、翌年無事ポストが変更されました。でも「ゴリ押し」が正しい行動だったかどうかは、今考えるなんとも言えません。
ルールなんて変えられないと思う子どもたちの危うさ
私が教員になった後、今度は教師の立場から児童や生徒から校則について相談を持ちかけられることがありました。
私の考えはこの記事で述べていることと一緒です。ルールを変えたければ、まずルールを変えるルールをつくろう、ちゃんと話し合いをもとうと言いました。
けれど、時間がかかると分かった途端に、諦めてしまう子どもがほとんどでした。
校則は教師が作ったものだ。
どうせ変えることなんてできない。
いやいや、校則は「拘束」するためのものではなく、もっとより良く活動したり、自分たちを守るためにあるものなんだよ。
もっと大人を巻き込もうよ。保護者でも、地域の人でもいい。変えられないルールなんてないんだよ。
そう言って、その言葉を信じてくれた子どももいましたが、残念ながら私の経験上では、その後の行動に発展させるまでには至りませんでした。自分の力の無さを痛感したものです。
民主主義ありきの法治主義
日本は法治国家ですが、法は民主主義を守るツールです。法は拘束されるものではなく、使うものです。もちろんルールを変えるためには、さまざまな政治的やりとりが必要です(もちろんそれが子どもであっても)。民主主義に基づいて行動するとは、そういうことを実行できるということでしょう。
先ほど「ルールなんて変えられないと思う子どもの危うさ」と書きましたが、じゃあ大人はどうでしょう? できていますか?
よく分からない。
めんどくさい。
選挙に行かない。
子どもたちの行動が学校の文化によって形成されていることを私は否定しませんが、社会の大人たちが自分たちの行動を省みずに学校のせいにするのは筋が通っているとは思えません。
おわりに
ちょうどこの記事を書いているとき、第100代総理大臣に岸田議員が任命され、衆議院の解散総選挙が現実味を帯びてきました。
国会は立法機関です。そこではたらく議員は、もちろんルールをつくったり、直したりする(法案をつくり、決議する)のが仕事です。
最近は議員立法は少なく、行政立法の方が多いです。この現象って、学校の校則で起こっていることとなんか似てません?
もし周りのルールで、明文化されていない、ルールを変えるルールがはっきりしていない場合、まずはそこから動いてみてはどうでしょう? 最初は間違いなく苦労するでしょうが、苦労したなりの見返りは見返りはちゃんとあるはずです。
今回は「#みらいの校則」をテーマに書いてみました。
この記事が誰かの刺激になりますように。
そして、大人がちゃんと選挙権を行使する社会になりますように。