文化発展論
ここで言う文化とは感情表現としての
創作物であり食文化などは含まない。
精神とは本能,感情,知性からなり
裸の猿は感情と知性が発達している。
そして、感情は文化を生み、
知性は学術を生んだ。
人間の人間らしさは文化を創り楽しむ事と
知ろうとし考える事だが、
人は知的というよりかは
感情的で学術や考える事が
趣味である人はめったにいなく、
文化を趣味とする人がほぼ全てである。
今回はその文化について語ろう。
アニメ,漫画,小説,歌,俳句などの
文化とは感情表現としての創作物だが、
そもそも感情とは何か?
人は感情が発達していると言ったが、
発達した感情とそうでない感情の
違いは何であるか?
感情とは抽象的な感覚であり
高次的で快不快の強い感覚である。
例えば、視覚は感覚だが、
点が3つという視覚の感覚には
顔という知覚が生じる。
そして、複数の感覚から知覚という、
より抽象的な感覚が生じる様に
複数の知覚から認識という、
より抽象的な感覚も生じる。
この様に感覚とは、
具体的で一次的(何からも生じていない)な
感覚と抽象的で高次的(何かしらを元とした)
な感覚の2種類に分けられて、
そのうち、抽象的かつ強い快不快を
生じさせる感覚が感情だ。
抽象的なだけの感覚は
ただの事実の認識や考えだし、
具体的で快不快が強い感覚は
痛みや食欲などの本能的な物だ。
食欲は本能で具体的だから
ごく限られた物にしか感じないが
「可愛い」は感情的で抽象的だから
動物にも人にも物にも、
子供にも男にも老人にも感じ、
とても幅広い対象に感じる。
感情が発達しているというのは
より抽象的な感情があるという事で
そもそも抽象的な事実の認識が
できないと抽象的な感情は持ちえないので
知能が発達していないと
感情が発達する事はない。
そして、文化が発展するというのは
より抽象的な感情で
表現した創作物が生まれたり、
できなかった表現ができる様になる事を指す。
例えば、飢えや病に苦しみ、
そういった本能的な悩みばかりの
江戸時代の人からすると、
現代人の悩みや感情は
とても些細でどうでもいい事に映るだろうし、
人は本能が満たされる程に感情的になる。
生きるか死ぬかでは
感情的になる余裕がないのだ。
貧しい国より豊かな国の方が、
自殺が多いのは自殺が
感情を動機としているからで
現代人の悩みや、
現代人が考える幸福と不幸が
全て感情的な事なのも
人々が感情的になっている事を示す。
誤解されない様に補足すると、
感情的というのは
ヒステリックとか感情で
知性を妨げる様子とかではなく、
物事に感情で反応するか、
物事を感情で測るか、
感情をどれだけ表に出すかという話だ。
感情豊かと言った方が
わかりやすいかもしれない。
話を戻すと、現代人は感情的になり、
より抽象的な感情を感じる様になったから
文化はより発展した。
例えば、昭和の歌は
どんな感情を表現してるのか、
何が言いたいのか理解しやすい歌詞で
物語性があって、その歌詞の情景や物語を
想像する事が容易い。
木綿のハンカチーフとか
明らかにそこに物語があるし、
昭和の歌で難解な歌は見た事がない。
例えば、「ワールズエンドダンスホール」
という歌の歌詞をパッと聞いた時、
全ての意味を完全に理解するのは
難しいだろうし、
どんな人がどんな感情を込めて、
言っているのか想像するのは難しい筈だ。
「恋しさと切なさと心強さと」
という歌の歌詞を見た時、
どんな性格(属性)の人が
どんな感情を発露しているのかわかるし、
昔の歌は今の歌よりも具体的で
気難しく繊細で理解が
難しい感情を歌った歌は少ない。
てきとうに現代の歌を列挙してみよう。
ロウワー,KING,夜に駆ける,シャルル,
I'm a mess,紅蓮の弓矢,
ネオメロドラマティック。
どれも昭和の歌程、
具体的な物語性やその歌詞を
歌う人の主観がどんな性格(属性)であり、
どんな感情を発露しているのか
理解するのが難しくないだろうか?
また、昔の歌は歌詞の主観の
性別がはっきりしているが、
今の歌は歌詞の主観の
性別は判別しずらい事が多いし、
そもそも抽象的だから
歌詞の主観の性別なんてないかもしれない。
「僕」という性別性が薄い中性的な一人称が、
最近の歌で多用されるのは
そういう理由があるからだろう。
歌でなく、物語の話をすると、
昔の物語に比べ、今の物語はより、
現実とかけ離れている。
昔々の小説は純文学ばかりで
非日常性が一切ない、
とてもリアルで、そこら辺にいる人の
日常を切り取った様な物が多く、
そうでないとしても、探偵ものの様な
現実にありうる物が多かったし、
現実を大きく超える事はなかった。
せいぜい、「吾輩は猫である」や
「ドグラマグラ」が現実から
離れてる感じがするが、
ドラゴンボールやガンダムと
比べたらとても現実的だ。
当然だが現実的な表現よりも
非現実的な表現の方が莫大に多いし、
より面白い作品を書くとなると
現実的というのは制約になり、
表現の幅を狭める事になる。
だから、より非現実な物語が
増えたのは文化の発展と言える。
また、非現実というのは抽象性が関わる。
創作とは結局の所,膨大な選択肢からの
選択を繰り返す事だが、
現実的という幅での選択肢は
非現実という幅での選択肢よりも具体的で
非現実は現実的(現実)含め、
無数の世界の中から世界を選択する。
今の物語も昔の物語も抽象性は同じで
どんな世界で主人公はどんな人物か
明らかであるが、
物語を創る上でどれだけ抽象的に
考えて作ったかが違う。
物語という具体をどれだけ抽象的な場から
抜き出したのかが違うのだ。
文化の発展は抽象性が鍵であり、
抽象的な感情が鍵である。
だが、もう1つ文化の発展を
語るには外せない要素がある。
それは文化を創る為の道具だ。
例えば、絵具と筆で絵を描く時,
その表現は限定される。
イラストを描くアプリでは
彩度,明度,色相の3要素を自由に調節でき、
存在しうるあらゆる色を使えて、
どんな形でどんな大きさで
どの位置に描くかも完全に決めれる。
描くという行為において
これ以上の自由度はない。
だが、絵具と筆では
限定された色と限定された書き方になる。
イラストを描くアプリでは
存在しうる全ての視覚を表現できるが、
絵具と筆ではそれができない。
表現の幅が電子的な絵描きの方が広いのだ。
音楽も同じで、音楽を作るアプリでは、
存在しうる全ての音色,
あらゆるリズム,あらゆる音程,
あらゆる音の大小の変化を表現でき、
音を時間的にも自由に創る上で
これ以上の自由度はない。
楽器を人が演奏するなら
楽器にあるだけの音色で、
人が演奏可能なだけのメロディでしか
曲を作る事はできない。
抽象性とか具体性以前に
表現の多くは道具に依存してるので
道具の機能によっては
できない表現があるのだ。
そして、その制限がなくなれば、
表現の幅が広がり、文化が発展する。
文化は間違いなく発展している。
文明の起こりから近代まで、
文化はあったし変化してきたが、
発展とは呼べない変化が多かった。
例えば、絵は時代によって、
画風が変わるがそれは
ただの流行り廃りでしかなく、
豪華絢爛で彩度が高く、
目が痛くなりそうな絵が流行った後は
無彩色の白黒の、習字の筆で
描いたみたいな絵が流行った。
それは進歩と呼べない。
なぜなら、時代の流れによっては
豪華絢爛な絵が流行る筈の時代に
白黒の絵が描かれた可能性があるからだ。
今の美少女の絵は
江戸時代には絶対に描かれえないし、
今の音楽も江戸時代には
絶対に奏でられないし、
その不可逆性が発展の証だ。
私は事なかれが嫌いだ。
人種差別が存在するからと、
人種は存在しないと言い出したり、
他の人を刺激したくないから、
「あれも良いけどこれも良いし、
みんな違ってみんな良い」
などと思考放棄したくない。
昔の文化より今の文化の方が
全体的に面白いし優れている。
ある昔の文化にしかない良さがあるとしても
それに良さを感じる人の人数と
その強度の積は今の文化に負けると思うし、
ある1つの昔の作品が
今の作品くらい面白いとしても、
同じ面白さの作品は今の方が多い筈だ。
また、今の文化の方が面白いからと
昔の文化に全く触れる必要が
ないとは思っていない。
「ある昔の文化にしかない良さがあるとしても
それに良さを感じる人の人数と
その強度の積は今の文化に負ける」
と言ったが、それでも結局,
その文化にしかない良さは
その文化でしか味わえないのだから。
表現の幅や表現の量から言って、
小説<漫画<アニメの順番に
文化は優れていると思うが、
全体的にアニメの方が
小説より面白いとしても、
小説には主観とその心模様をたくさん
表現されているという良さが
アニメとは違ってあるのだから、
小説も見た方が良い。
野菜より肉の方が美味いけれど、
野菜も野菜で美味いのだから、
野菜も食べるに決まってる。
そういう話だ。
ただ、昔の文化は高等で知的であり、
今の文化は下等で幼稚という意見を
私は否定するし、小説はよく読むが、
小説を読むと為になるなんて一切,思わない。
「漫画ばかり見ないで本を読みなさい」
なんて叱責は馬鹿らしいし、
学校で小説を読むのは良くて
漫画はダメなのも馬鹿らしい。
所詮,漫画も小説も面白いだけで
為になんかならない。
そもそも、為になる事を
目的にするなんて不純な態度だ。
文化はそれ自体に価値がある。
昔からある物は公的で綺麗であり、
最近の物は私的で俗っぽいという
偏見が先の考えを生んでいるのだと思う。
文化は為になる為ではなく、
面白いから見るのであるし、
音楽の教科書に載ってる様な、
童謡みたいな退屈な歌を聴くよりも
現代人の悩みや思いを表現した
刺激的な歌を聴いた方が
感情豊かで優れた人に育つと思う。
文化は為になる為とか
成長する為に見る物ではないが、
文化に触れないで生きるのは
動物的で退廃的だと思う。
TVすら見なくなった老人の様な
植物みたいな生き方よりも
色々な物語に触れ、
音楽を聴いたり奏でたりしたり、
ゲームをしたりして生きる方が人間的だ。
為になるとかの理由で昔の文化だけに触れ、
純文学の小説だけ読み、
クラシックの曲だけ奏で、
風景を語るだけの歌を歌い、
ゲームは将棋だけするのはただの老人だ。
全く文化に触れない人の
人間としての充実度が0なら、
さっきの人や老人は1で、オタクは2だ。
老人は穏やかに余生を過ごす物で
充実を求める時期は過ぎてるから
昔の文化だけ触れるのでもいいが、
産まれてから死ぬまで昔の文化にだけ触れ、
老人みたいに生きるのは
非人間的で虚しい生き方だ。
人間的に最も充実した人達、
その生き方はオタクだと思う。
そのオタクに対して、
「漫画でなく小説を読め」と言ったり、
ボカロやアニソンを否定したり、
オタク文化を否定する人達は
人間的に虚しい、老人みたいな人で、
オタクの方が人間的に優れている。
友人と群れて遊んだり、
他者から評価されたり、
結婚する事や恋愛する事を
人間的な成功の証と考える人が多いが、
それは本能的だと思う。
群れの中で良い立場になり、
いい異性とつがいになって、
繁殖して子供を育てる事だけが
大切なのはただの猿じゃないか。
人間的な充実は
より文化的に生きられるかであり、
より良い文化,色々な文化に触れ、
自己表現して文化を創り、
文化の中で生きる事だ。
人間らしさは、人間として
どれだけ発達しているかは、
文化的であるかと知的であるかの2点である。
オタクと学者が人間的に優れているのだ。