狂言のこと-1(現在につながる台詞術)
狂言のお稽古について書いたら、ちょっと面白いのではないかと思いました。
私の社中では、年1回、能楽堂で発表会があり、1年のうち8ヶ月くらいはその稽古に費やします。
狂言は基本的には弟子と師匠との個人レッスンです。謡やセリフの稽古は師匠の声をひたすら真似ることに終始します。
発表会の演目が決まり、相手役が決まるとその演目の練習に入り、相手役と一緒に稽古をしますが、10回も一緒にはやらないですね。
必要な時だけ一緒にやる感じです。そこが現代劇とは違います。
稽古の基本姿勢としては、稽古開始の挨拶(一礼)をしたら、もう、弟子の方は師匠の手本を返す以外のことはしません。
質問なども稽古中は絶対にしません。雑談もありません。「はい」「分かりました」「すみません」なども、言うと怒られます。
仮に、師匠がセリフを飛ばしたり、間違っていても、素知らぬ顔で、そのまま返すのが礼儀です。
「先生、違います。」などと言ってはいけません。怒られます。
あとは、師匠の声をひたすら聞いて、真似るの繰り返しです。できていれば、次へ進み、できていなければ、そこを繰り返しやります。
師匠「🎵宇治の晒しに」
弟子「🎵宇治の晒しに」
師匠「🎵宇治の晒しに」
となったら、出来ていないということです。
何がダメだったのか、考えて、もう一度、やり直します。
それでも「🎵宇治の晒しに」となったら、直したところが違っているということなので、また、自分で変えて「🎵宇治の晒しに」とやります。
何度かやって出来ていないと、
「違います!」「よく聞いてください!」「だから、違うんだよ!」などど、怒られます。
無理だなと思われると、高さが足りないとか、強さが足りないなどの注意(説明)を受けます。
本来は説明を受ける前に、聞いてできないとダメなのですが、機嫌が悪いと「説明させないでください!」と怒られますが、説明してくださいます。
弟子の心中としては、ダメな弟子で、すみません、、、と、思って、その通りやろうとするのですが、大抵、出来てなくて、また、怒られます。
そのうち、先生が何も言わないと、自分がやったもので良かったのかな、、、と、師匠に確認したくなってくるのですが、そういうそぶりも怒られます。
師匠曰く、「稽古は確認の場じゃありません。自分がこうしよう、こうしたいと思った表現を思い切りやって、見てもらう場なんです」とのこと。
答え合わせをするな!と。
学校根性が染み付いてますから、どうしても、正解がほしくなってしまいますが、表現者の態度ではないということでしょう。
今の指導法と大きく違うのは、褒めないということです。出来ていれば進み、違っていれば注意されるの繰り返しで、私も、15年近くやっていますが、先生から褒められたのは3回だけです。
まぁ、ですから、そのときは、ものすごい嬉しいわけです。
向上するための動機というのは人それぞれあると思いますが、私は、さほど真面目でも、積極的でもないので、先生に怒られたくない(あるいは、怒らせたくない)という動機で、稽古をやたらやっていた時期があります。前回の稽古で言われたことを、ある程度クリアできていないと、非常に辛い稽古になりますので、それを回避するために、先生からご注意いただいたことをひたすらやって、次を乗り切る、という繰り返しとなるわけです。
ようやく本番の1週間か、2週間前になって、なんとなく、作品や、役としての面白さがわかってきたところで、本番、となります。
実は、一番、緊張しないで、伸び伸びやれるのが、本番だったりするんですね。師匠も、本番が終わった後は、何もおっしゃることはないので、掴んだと思うものを、思い切ってやって終了します。
そんな先生の熱心なご指導があって、セリフの表現法、緩急、強弱、高低の付け方、表現者としての在り方、声の出し方、音の聞き方、弟子としての振る舞いなどを叩き込んでいただき感謝しています。
現在、ナレーションを若い方々に指導する立場となりましたが、狂言の台詞術が、どれほど役に立ったかわかりません。
なぜ、うまく聞こえないのか、狂言の台詞術でおおよそ説明することができます。
そして、指導をしながら、自分のナレーションを見返すことになり、たくさんのヒントをいただいています。