「万博やめろ」は正しいって話
「万博やめろ!」「税金の無駄だ!」
個々人の主張はさておき、上記のようなワードを見たことがある人は多いのではないだろうか。
今回は、その「万博やめろ」の主張を補強したいと思う。
なお、私自身は2025大阪・関西万博に少なからず関わっている側の人間である。
その為、一定バイアスがかかっている人間であることを先に申し上げる。
さて、まず「万博やめろ」と主張する方(以下、「万博反対派」と便宜上表記する。)の論点を整理すると、概ね「意義」と「金」に集約できた。
万博反対派の主張に感情的に寄り添うなら、「分かる」である。
だって、目先の成果が見えないもの。
だって、湯水のようにお金を使っているもの。
それにもかかわらず、万博は開催することを許されている。
もう少し、詳しく書こう。
例えば、私が会社で、目先の成果が見えないものに、湯水のようにお金を使っていたらどうだろう?
間違いなくクビが飛ぶ。
いかに崇高な大義があろうと、その主体が社会の歯車に過ぎない私の行いなら、間違いなくクビが飛ぶ。
社会は私たちに、成果を求め、足りなければ簡単に捨てるような残酷性も孕んでいるのに。
そんな怖さを抱えながら私は必死に生きているのに。
万博だけ全部許されるのおかしくないですか?
私は許されないのに、「万博」は全てが許される。
その構図が、「万博」というフレーズを聞いただけで、反射的に反対してしまう主たる要因ではないかと仮説する。
しかし、これらは未だ感情論の域をでていない。
なぜ、万博反対派はそう思ってしまうのか?
その責任は、間違いなく、『文化的なものは、お金にならない。したがって、それは無意味な行為である』という思考回路を大衆化させた資本主義的な教育システムにある。
だから、万博反対派の反応は正しいのだ。
この国が進めてきた教育の成果であり、賜物なのだ。
コストは抑えろ。そのうえで最高のパフォーマンスをしろ。その行いこそ正しいのだ。
そうやって国が育て、能力社会を作ったくせに、突然現れた「万博」というフレーズは、ことごとくそれを超越していくことが許される。
そんな道理が通るはずがないだろ。
と、まぁこういった具合でしょうか。
突然、いのちかがやくとか、Well-beingとか言われて理解できるわけないんですよ。
ずっとそれをみんなから取り上げて来たのは、国なんだから。
以下、あとがき。
故に私は万博を応援しています。
もう資本主義的な能力社会は限界がきています。もう立ち止まる時です。
万博の役割は、能力社会に囚われた人々を解放することだと私は思っています。
忙しい彼彼女たちを、立ち止まらせ、長い夢に連れていくような、本物の芸術を届けなければなりません。
それが全てを許されている万博に関わるものの責任だと思います(自戒)