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四十八文字の話『カ』 合戦1(大坂の陣)

日本は勿論の事、世界中で古代から「争い」が起きてきました。その争いの原因は千差万別で、一言では説明出来ませんよね。ですが原因はともかく日本で行なわれた合戦を観てみると、何やらある傾向がある様に思います。

勝った側は問題無いでしょうけど、負けた側は、負けた事によりかなりの損害を受け、それまで保持していた「領地」や「利権」を失い、路頭に迷います。ですが、負けた側の一族が「根ざやし(滅亡)」にされる事は殆どなく、負けた側の男系は殺される事は多くとも、女系はその後も連綿と生き抜き、明治時代まで存続している例は、まぁまぁ有ります。

例えば、桶狭間で敗れた「今川氏」、大坂の陣で敗れた「真田氏」、合戦とはちょっと意味合いが違いますが小田原の「後北条氏」、「織田氏」などと、直系とは限りませんが、血の繋がるご子孫は明治時代まで続いてます。どうしてこのような事になるのか?

昔からある言葉に下記のものが有ります。

「戦いは行われる前からすでに勝敗は決まっている」


つまり、戦う事になるであろう「当事者」同士が戦いの結末を戦う前から話し合って決めている、という意味です。

この「言葉」の通りなのかどうか、先程明治時代まで生き残った一族をあげましたが、実は現在まで血の繋がっているご子孫がいらっしゃる方を例にして記したいと思う次第です。

「大坂の陣」で日本全国に名を知らしめた『真田幸村』公です。

皆さんもご存知ですよね。敵将徳川家康公をして「日本一の兵(ヒノモトイチノツワモノ)」とまで言わしめた「大坂の陣」の合戦が、事前に「当事者同士が勝敗の結果を決めるための話し合いが行われていた」としたらどう思われます?

真田ファンの方々、これはあくまでも私の考えであるので、酔っぱらいの戯れ言として、ご立腹せずにどうか最後まで付き合って下さい。

関ヶ原の合戦の時、幸村公は地元の信州上田城で父親の昌幸公と共に徳川秀忠軍を迎えうち、巧妙な戦い方で足止めさせて時間をかせぎ、とうとう秀忠軍を関ヶ原の合戦に間に合わせなかった、という「大勝利」を勝ち取りました。が、しかし肝心の関ヶ原の合戦では豊臣方が負けた為、豊臣方である真田氏は、上田城での大勝利が無駄となり敗軍となりました。

その代償は、先程記した負けた側の悲惨な状況となり、領地や上田城の明け渡し、和歌山の九度山への幽閉となった、という話は皆さんもご存知ですよね。

で、これからが本題となります。幸村公の出生年には諸説有りますが、ここでは仮に元亀元年(1570年)とさせて頂きます。とすると、九度山に幽閉された時の年齢は30歳程です よね。現在よく言われている様に、この時代の年齢に相当する現代の年齢は+10歳、と言われています。それに従うと、現代で言えば40歳の頃で幽閉された事になります。その後、豊臣方に依頼されて九度山から去ったのはその14年後。現代で言うならば54~55歳です。

皆さんの中にも40~50代以上の方々がいらっしゃると思いますが、御自分の体力の衰えって40歳を過ぎた頃、特に感じてますよね?幸村公が幽閉されて脱出するまでの14年間、幽閉され、常に監視されている状況を考えれば、稽古や調練など出来るわけもない環境にいたわけですから、当然、体力!、戦場で発揮すべき刀、槍、馬立などの技量!が落ちるのは当然ではないでしょうか?それもかなり‼️落ちる、と思います。

ですが、九度山から逃れ大坂の陣に加わったあの幸村公の「大活躍」、何なんですかね?

確かにある文書によれば、時折、近所の村民と一緒に調練していたと記されている様ですが、それは、「どんなレベルの調練」だったのでしょうかね?幽閉されている以上、大々的な事は出来ませんよね。

つまり14年位の間、ろくな鍛練も無いままでいた状態の人物が、どうして、あのいきなり‼️の大活躍が出来たのでしょうか? 

そこで先程の

「戦いは戦う前から勝敗が決まっている」

という言葉が出てきます。

冷静に考えるまでもなく、既にあの時代の勢いは徳川方に有り、幸村公がいくら抵抗しても世の流れを止められない事は充分お分かりのはず。

一方家康公にとっては、流石戦国時代を生き抜いてきた「嗅覚」はすごい物でありましょうから、この戦には負けるはずないという確信は有ったでしょう。ただ唯一、息子秀忠が苦汁を飲まされた手強い相手がおり、出来ればどうにか穏便に済ませる事は出来ないか?と、考えていたのではでしょうか?

そこにお二人の考えが一致する部分があったのでは?

ただ話し合いとなると、これは一種の「取引」になるので、双方共、自分達の取引条件を示します。家康公の要求は「適当なところで矛を収めてくれれば、それなりの待遇に処する」、な的な要求だったであろうと思います。

そして家康公は幸村公からの要求を聞き、熟慮し、その要求が飲めるか否かの判断をする必要があります。勿論到底飲めない要求ならば、決裂!、本格的な激しい戦となり、徳川方の被害も相当大きいものになるでしょう。

では幸村公の要求は❔何んであったでしょうか?

(続く)

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