四十八文字の話『ヌ』1「ヌボコ」を古事記では「沼矛」、日本書紀では「瓊矛」と表記しますが、この違いは何故?( 単なる「言葉遊び」? )
皆さんも学校の授業などで習ったと思います。
「古事記」と「日本書紀」。
共に「天武天皇」(てんむてんのう)の命により編纂された書物です。
実際に完成したのは奈良時代。記されている内容は、神代の天地の始まりから、「古事記」は「推古天皇」(すいこてんのう 628年頃) の御代までを、「日本書紀」は「持統天皇」(じとうてんのう 697年頃) の御代までの出来事を、共に「漢字体」によって書かれています。
何故ほぼ「同じ時代」に、ほぼ「同じ内容」の書物を二冊も、それも天皇の命、詔(みことのり)によって編纂されたのか、今現在でも各方面に、実に色々な諸説が有るようですが。
この二冊、同じ事項でも、微妙な相違が有るようですね。( 私も詳細な事を全て知っているわけではないので😜 )
そして、同じ内容、同じ言葉でも、それぞれ違う「漢字」で表記されている箇所が有ります。
その一つの例が表題で記した「ヌボコ」です。
「国生み神話」の太古の時代。
まだ混沌していた中、海なのか、大地なのか分からないその部分を矛( ほこ )でかき混ぜ、そして引き上げたその矛から滴り落ちて、積もり積もって形造れたのが現在の「日本列島」だと伝わっています。
この時の「矛」、「ヌボコ」を「古事記」では「沼矛」、「日本書紀」では「瓊矛」と表記されていますが、同じ矛なのに何故「漢字」が違うのか?
仮にも当時の天皇の直々の「詔」(みことのり) によって編纂された書物に何故そんな相違点が有るのか?
それを説明してくれる一つの可能性としてあるのが【言葉遊び】だと思われます。
◯万葉仮名(まんようがな)は「言葉遊び」
皆さん、「万葉仮名」はご存知でしょうか?
学校の授業でも出てきたか( 私の時代はそうでしたが )と思います。
日本最古の歌集「万葉集」( まんようしゅう )に載っている和歌はほぼこの「万葉仮名」で謳われています。「古事記」「日本書紀」は「漢字体」で書かれていますが、歌謡の部分はやはりこの「万葉仮名」で書かれている場合も有ります。
「万葉仮名」というのは、「飛鳥時代」から使われており、「日本語の音」を本来の意味に関係なく、「音」が似ている漢字に当てた事を表します。「仮名」と付いてますが、「カタカナ」「ひらがな」ではなく、簡単な話、いわゆる漢字による「当て字」の事です。
例えば、
「花」(ハナ)を万葉仮名にすると……「波良」
「山」(ヤマ)の場合は……………………「也麻」
「古事記」の話に出てくる「八雲立つ」(やくもたつ )という言葉を「万葉仮名」では、「夜久毛多都」。「小倉百人一首」の「ちはやふる」は、「知波夜布留」、などなどです。
また現在でもよく使われているのが
「あぁ」➡️「嗚呼」 これも「万葉仮名」です。
これらを観ていると、古代の国家ぐるみの壮大な【言葉遊び】の観、を感じますね。
で、「ヌボコ」ですが、「古事記」で「沼矛」と書かれているのは、正に「万葉仮名」だと思われます。
「ヌ」という音を表す「万葉仮名」の一つが「沼」です。その他には「奴」「努」「怒」「濃」などが有ります。
では「日本書紀」の「瓊矛」はどうなのか、これについては後程記させて頂きますが、その前に皆さんには日本人が古来から持っていると思われる【音】に対する感性、なぜ外国語をいとも簡単に日本語の「外来語」にしてしまうのか、その感性によって【ヌ】といった【音】自体を何種類もの【漢字】に使い分けて当ててしまう事が可能であった、等々の話をしたいと思います。
◯「外国語」を日本語に取り入れる(外来語)
日本以外の外国の言葉を取り入れ「日本語化」し、「日本語」の一部に含まして、日本人の日常会話に何不自由なく使用する、それが「外来語」デスヨね。
戦後になりアメリカの「英単語」が沢山取り入れられました。最早、どの言葉が「外来語」なのか?、分からないくらい日本人に馴染んでいます。
これは例えて言ってみれば、「外来語」となった外国語、英米国の「英単語」は、現代の、かつての大昔に中国語の漢字を取り入れた「万葉仮名」と同じ、だと思います。
遥か大昔、大陸との往き来により、中国から幾多の文化、文物が日本に持ち込まれました。その文物からより多くの事を効率良く吸収するため、自分等の話す「日本語」に固執するよりも、中国の文字「漢字」を覚えたほうが早い、それも「漢字の意味」は後回し、とりあえず「漢字の音」を覚えたほうが早いのでは?、と思った方々がいらしたのではないしょうか?
「遣唐使」図
いわば、歴史の教科書に出てくる出来事よりもその出来事が起こった「年号」を、また、英語の教科書に書かれている「英語の和訳」より「アルファベットの音」「発音」の「丸暗記」をやって、とりあえず、テストの点数を上げよう、と思ったのと同様かと。
少しいい加減な🙇例ですが、中国語の「音」を基として、現在でも使われている日本語を以下に記します。
⚪中国語の「chao hao」 → 日本語の音は「チャオハオ」 → 「チャーハン」
⚪中国語の「la mina」 → 日本語の音は「ラーメュン」 → 「ラーメン」
⚪中国語の「Ayer」 → 日本語の音は「アヤー」 → 「アイヤ~❗」(笑!)
🌕因みにですが、以前私と同じ職場にいた中国人、中国の天津(てんしん)市出身の方に聞いた事が有るのですが。
「【天津飯】(てんしんはん)って、天津市の郷土料理なの?」
その方、こう答えました。
「アイヤ~ ( 笑 )。 いえ、いえ。私、日本に来て初めて知ったあるヨー」(大笑い)。
また雰囲気がガラリと変わって、仏典用語 ( 古代インドの【サンスクリット語】 )では
⚪「asura」 → 日本語の音は「アスラ」 → 「アシュラ」( 阿修羅 )
⚪「yaksa」 → 日本語の音は「ヤクィサ」 → 「ヤシァ」( 夜叉 )
⚪「yuloi」 → 日本語の音は「ユロイ」 → 「にょらい」(如来)
⚪「bodhisattva」 → 日本語の音は「ボディサットヴァ : 略されて、ボダイサッタ」 → 「ボダイサッタ」(菩提薩埵) → 「ボサツ」( 菩薩 )
⚪アジェンダー石窟群壁画( インド西部 ) 聖観音菩薩立像
古来から外国語を日本語化する、伝統文化「外来語」は、日本人の得意とする分野なのでしょうね。
◯日本の歌謡曲の歌詞に中に「英単語」が入っていても違和感はないですね
こういった外国の言葉、「音」を取り入れる事は、現代でも行われていますが、その顕著な所は私が言わなくとも皆さんご存じでしょうが、それは「日本の歌謡曲」です。
曲の中に突然「I love you」(アイラヴユウ)とか、「T onight」(トゥナイト トゥナイ~)などの歌詞が出てきても、別に違和感を感じませんよね。( 実際はその曲にもよりますが )
例えば「愛」という意味の言葉を歌の中に入れる場合、日本語の「愛(あい)」という音にするのか、英語の「愛(ラヴ)」という「音」にするのか?
それは、その曲の中で、どちらがよりリズム感が良いのか、ノリが良い方のか、を判断して歌詞に入れるのだと思います。
それって結局、「歌詞 (言葉)の意味」よりも「耳に聞こえてくる【音】」を重視している事にならないでしょうか?
何も日本人だけではないでしょうけど、「言葉として」よりも「音として」の面を本能的に受け入れられる、これは古来から自然と積み重ねてきた日本人の「感性」なのかもしれません。
先程記されて頂いた「外来語」(がいらいご)も、「言葉として」の意味より先に、耳に響く「音として」取り入れられた、【音】が重視されているのでは、と思います。
◯欧米音楽の歌詞に「日本語」が取り込まれてない現象と「虫の鳴き声」との意外な関係
皆さん、話が少し変わります。
秋の夜長に聞こえてくる数々の虫達の鳴き声を思い出してみて下さい。
コオロギや鈴虫といった虫達らの鳴き声は、なにか落ち着く、「良い音」「良いサウンド」に聞こえますよね?
ですが、これらの虫達の鳴き声を「良い音」と感じているのは、この地球上においては、我々日本人と南太平洋のポリネシア人だけで、その他の民族の人々とっては「単なる【雑音❗】にしか聞こえてない事実」をご存知でしょうか?
アメリカやヨーロッパ、イギリス、イタリアやフランスといった国々、ましてや同じアジアの中国や朝鮮の人々にとっては、虫の音は、ただただ「耳障りの悪い【雑音】」にすぎない様です。
これは勿論何も私の意見などではなく、その筋の専門家の調査結果です。
ここでの重要な点は、「日本人」としてのDNA、遺伝的な要素ではなく、あくまでも「母音」主体の日本語を、聞いて育ったか?、という点です。
つまり、国籍は外国でも小さい頃から「日本語」で育てば、これと同じ事となり、また逆に国籍がたとえ日本でも「外国語」で育つと、この範疇には入りません。
「日本語」を「母国語」として育った人達。
これらの人々は、虫達の鳴き声を脳の左側、「左脳( 論理脳) 」で聞きます。つまり「虫の鳴き声」を単なる「音」としてではなく、【何かしらの意味を持つ音】、簡単に言うと人々が日常的に語っている【声】と同じ様に認識しているんだと思います。
またこれは何も「虫達の鳴き声」に限りません。
大自然から聞こえるて来る音、例えば、鳥や動物達の鳴き声は勿論の事、風の音や清流のせせらぎの音など、自然に存在する「音色」(ねいろ)を【声】として聞き、何のためらいもなく受け入れている、という事です。
いやはや、先程記した「虫達の鳴き声は日本人にしか聞こえない」ブログで、長年の成果を発表して下さった東京医科歯科大学名誉教授の角田氏には、本当に頭が下がります🙇。貴重な学術成果、有難う御座います。
ところで皆さん、ちょっと変な?話になりますが。
このブログを読ませて頂いた後、何故かな~、私の頭の中に、ふっ~と突然、「とある有名な俳句」が流れてきんですよ☺️( これは冗談なのではなくホントですよ☺️ )
それは、日本人なら大抵の方はご存知の「俳句」。
この俳句が既に江戸時代に詠まれていた❗と言う事実を知れば、大変僭越ですが、この「虫の鳴き声」に関するブログの調査結果を待つまでもなく、またそのブログ読んではいないはずの江戸時代の日本人は、誰からも教わらずに、自分等の脳の仕組み ( 母音主体 ) について、本能的に悟っていたのではないでしょうか?
🌕山寺【立岩寺】(りっしゃくじ) 山形県山形市
⚪「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 ( 松尾芭蕉 「奥の細道」)
「松尾芭蕉」(まつおばしょう) と 門人「曾良」(そら)
🌕「俳句」……わずか五七五の数の言葉 (音)の世界の中で、この現世の世情を表現。この「松尾芭蕉」も、「虫達の鳴き声」を聞く事の出来る「母音主体の日本語」を継承した偉人ではないか、と思います。
「蝉の鳴き声」がまったく不快ではない。
蝉の鳴き声を「右脳(感情脳)」で聞くと、けたたましい「雑音」となりますが、「左脳( 論理脳 )」で聞けば、「雑音」ではなく「声」として聞ける、と言う事を示しています。
🌕ある日本人の方がアメリカ留学中に、知り合った友人のアメリカ人を自宅に招いた時の事。
庭には、そんな時の季節だったのでしょうか、沢山の虫達の鳴き声が聞こえていたそうです。それを聞いたのであろう、そのアメリカの友人はこう言ったそうです。
「なんだ?、どうしてノイズ ( 雑音 ) が聞こえてくるのかな?」
また、この「松尾芭蕉」の歌の後半に詠まれている「蝉の声」、という表現。
耳に聞こえてくる蝉の鳴き声。
これをあえて蝉の【音】としては詠まず、蝉の【声】として表現したのも、ただただすごい❗と思うしかないです。
🌕「蝉の鳴き声」を聞くと夏の猛暑を思い出して「暑苦しなる」、「閑けさや」なんて思わない、という人もおられますが、でも秋の虫達の鳴き声は悪くないのでしょう?その不快感は「蝉」のせいではないはずです。また同じ蝉でも「カナ、カナ、カナ~」と鳴く「蜩」( ひぐらし )の鳴き声は良いものです。その不快感は「鳴き声」が原因ではなく、身体が記憶していた気候的な要因から発するのではないかと、思います。
この母音主体の「日本語」を聞いて育った我々日本人。
だからでしょうね。
英単語を自分達の「日本語の歌」に取り込んでも、何の違和感をも感じないのは❗
⚪「虫の鳴き声」 = 「英単語の音」
ですが一方の「子音」主体の諸外国の言語。
「虫の鳴き声」を「右脳( 感情脳 )」で聞きますので、「意味有る音」「声」などではなく、「雑音」としか認識出来ません。
得たいの知れない「虫の音」、だから母音主体の「日本語」を、初めから自分等の「英語やフランス語などの歌」に取り込むなどという発想すらない様です。
⚪「虫の鳴き声」 = 「雑音」 = 「日本語」
この違い、「虫の音」が「心地好い音」に聞こえるか、「雑音」に聞こるのかのその違い。
自分等以外の外国の「言葉」を、自分等の歌の中に取り入れるか否か、その民族の本能的な判断に繋がっているのではないかな~、と私は思っています。
◯日本の歌の中には、奈良時代の「万葉集」は勿論の事、とても耳触りの良い「外来語」が取り込まれています。
奈良時代に、「万葉仮名」で編纂された「万葉集」(まんようしゅう)。
この歌集の、編纂の中心的な人物が「大伴家持」(おおとものやかもち)。奈良時代の公卿、歌人です。
⚪日本最古の歌集「万葉集」編纂の中心的人物、「大伴家持」(おおとものやかもち)
「万葉集」に載っているこの方の歌の数は、この歌集の一割にもなります。
「万葉仮名」で詠まれた歌ですが、今現在でも詠み継がれてる「和歌」が有ります。
それもちゃんとリズムに乗った「曲」として。
その代表の例が「海行かば」です。
千三百年前の和歌を何不自由なく、聞き入れられる事って凄い事❗だと思いませんか?
🌕またまた因みにですが。この方のお父上も公卿、歌人でありました。現在の元号「令和」( れいわ ) の元典となった「梅歌の宴」を福岡大宰府で読んだ「大伴旅人」(おおとものたびと)です。
「海行かば」
外国の言葉、「音」を取り入れる事は、現代でも行われていますよね。皆さんご存じでしょうが、それは先程記した通り現在の歌謡曲、取り入れられているのは主に「英語」です。
これも先程述べさせて頂いた様に、どちらがよりリズム感が良いのか、ノリが良い方のかで「あい」にするのか、「ラブ」にするのか選択が可能です。
それは結局、「歌詞の意味」「言葉」よりも耳に聞こえてくる【音】、【声】を重視している事。
「英単語」を「虫達の鳴き声」と同じ様に聞いている、となります。
いわゆる「外来語」( がいらいご )も「言葉として」の意味より、耳に響く「音として」取り入れ、その後「意味」を加えて日本語化し使用します。
一方欧米諸国。
欧米、英語やフランス語で歌われている歌に中に、「日本語」の「言葉」「音」、例えば「愛してるぜ~」とか、「絶対に離さないよ~」とかの日本語が取り入れられている歌は有るのでしょうかね? ( 私は知りませんが )
では日本の歌から、私が好きで、外国語の「音」がしっかりと馴染んでいる歌の例をあげてみますね。
「山崎まさよし」
「小野正利」
「欅坂46」
「セゾン」はフランス語です。
日本の歌に「外国語」がシックリしてますよね?
◯「沼矛」と「瓊矛」
話を表題の「沼矛」と「瓊矛」に戻します。
「沼矛」については冒頭で万葉仮名、と記しました。では、「瓊矛」は?
これには数々の専門家からの色々なご指摘が有ると思います。
ですが私は下記の様な理由では?、と推察させて頂いています。
「瓊矛」( ヌボコ )の「瓊」は、現在では「ニ」と読まれています。ですからこの読み方では「ヌボコ」とは読めません。「日本書紀」が編纂された当時は、そう読まれていたのかも知れませんがね。もしそうだとしても、そうでなくとも、何故「瓊」を使ったのか、「当てた」のか。
それは「瓊」という漢字には、「宝」(たから)と言う意味が含まれている、という事に繋がります。
『三種の神器』(さんしゅのじんぎ)。
太古から代々の皇室に伝わり、現代でも皇統(こうとう)を引き続ぐ「証」(あかし)として奉じられている「宝物」です。
『三種の神器』の一つ、『八咫鏡』(やたのかがみ) は三重県伊勢市の「伊勢神宮」に、『天叢雲剣』(あめのむらくものつるぎ) は愛知県熱田市の「熱田神宮」に、そして、東京都千代田区の皇居に奉られているのが『八尺瓊勾玉』(やさかにのまがたま)です。
⚪勾玉
現代でも「お守り」として人気のある「勾玉」(まがたま)。
⚪『八尺瓊勾玉』
その名前の中に含まれる「八尺」( やさか )は、時として「八坂」とも表記されますが、京都の「八坂神社」(やさかじんじゃ)と同じで、【弥栄】( いやさか )が転嫁したものと伝われています。そして「瓊」は先程記した様に「宝物」の意。
「八尺」( やさか )の「尺」。これも実際問題として、現代では「さか」とは、到底読めません。もう無限にこうした読み方の違いが有ります。
ですが、これらは、古代に生きた人達がその時の想いで、いくつもにもなる同じ音の漢字の中から選択した、「当て字❗」なのでしょうね。
「増々の繁栄を願い伝える【宝物】の勾玉」という意味なのだと思います。
神話においては、今現在の私達が住む「日本列島」を造ったと伝わる「ヌボコ」。
正に「宝物」ですし、だから「瓊」( ニ : たからもの )という漢字が当てられたのではないでしょうかね。( 読み方は違うかもしれませんが )
日本語の【音】に外国語を当てる、それもその時々に応じて何種類も使い分けて。
この日本で実に太古から行れてきた「言葉遊び」は、日本人が持つ「音」に対する「感性」に裏打ちされたもので、言うなれば
⚪正しく、日本の「瓊」、「宝物」ものです。
🌕余談となりますが、世の中にはまだ「大陸から漢字が伝わる前には、この日本に文字などなかった」、などと言っている方々がいらっしゃいます。もしそれがホントならば、日本人が初めて見た文字が「漢字」という事になります。
その初めて見た漢字を日本の「音」にいくつも当てていく、などといった芸当「言葉遊び」が、「文字」を持ってなかった民族が、成し得る事など可能であったでしょうかね?
今回はこれでお開きにさせて頂きます。が、「古事記」「日本書紀」には更に謎の点が有ります。
これらについては、次回に述べさせて頂きます🙇
では、失礼します。