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いとくず(一一)

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詩(九一)

まるで鳥のように着飾っている人がいた。色とりどりの羽根をつけて、鳥のように着飾っている。その両腕は、まるで翼のようだ。だがしかし、その翼は少しも羽ばたいていない。その人は街の歩道を普通に歩いていた。ごく普通に、まるで鳥のように着飾って歩いているのだ。「なぜ翼があるのに羽ばたかないのですか」「いいや、そんなことはない。よくご覧なさい。わたしは、ちゃんと羽ばたいてますよ」「見たところ、地面に足がついたままですし、普通に歩いているだけに見えますが」「いいや、そんなことはない。ほら、もう足は地面についていませんよ。それにもう、わたしはとても高く飛んでいます」「いいや、そんなことはない。あなたは今もわたしと同じようにこの道を歩いています」「いいえ、それはあなたにそう見えているだけなのです。どうやら、あなたあまり鳥のことをご存じじゃないようですね」「ええ、わたしはごく普通の人間ですから」「いやいや、そんなのはただの思い込みでしかありません。本当は、鳥も人間もそう大差はないのですよ」そう言うと、そのまるで鳥のように着飾った人は歩きながらどこかに飛び去っていった。

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詩(九二)

もう何もかもどうでもいいや。これからは死んだふりをして生きよう。そんなことをぶつくさ言ってたら、どこからか小柄な老婆が現れた。ひと目みて、なんとなく薄気味悪い感じだと思ったのだが、聞けば死神だという。どうやら、死んだふりをして生きるのは、どっちつかずで死神にとっては大いに困ることらしい。それにねえ、死んだふりなんかしてる場合じゃないの、あんたまだ長生きすんだから、と老婆がいう。たっぷり寿命が残っているのに、死んだふりをして生きるのもまずいらしい。すると、老婆から死んだふりでなく医者のふりして生きないかと誘われた。話には聞いていたが、死神が医者になるのを勧めるなんてことが本当にあるのだと少し感動した。いくら医者のふりをしたって、そのうちに欲に目が眩んで最後は自分の寿命を縮めるだけ。それなら死んだふりの方がましである。おやまあ、どうなんのかもう知ってんのかい、と老婆が苦虫を噛みつぶしたような顔でいう。お生憎さま。あじゃらかもくれんはいじゃっくてけてっつのぱ。あ、消えた。ああ、もう何もかもどうでもいいや。このままずっと死んだふりをして生きよう。

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詩(九三)

気がつくと、もう周りには誰もいなかった。とても静かだ。そして、そんなとても静かな日々がずっとつづいた。誰もいないからひとことも話さない。しかし、時には誰かと話したくなることもあった。だが、誰ももうここにはいないのだ。ひとまず、目の前にある海に話しかけてみた。「おーい」って。すると、海は返事をしてくれた。そして、海とわたしはすぐに打ち解けて、海はわたしにいろいろな話を聞かせてくれた。わたしには人間の考えていることがどうもわからない。どうして、こんなにもわたしは馬鹿にされなければならないのだろう。だれもかれもが、わたしに対していきなり「バカヤロー、バカヤロー」という。それも、渾身のバカでかい声で、力のかぎり叫ぶんだ。だから、もう人間の声なんかちっとも聞きたくなくなってしまっていたのです。あなたのように優しく話しかけてきてくれる人は、本当に久しぶりでした。それで、ついつい返事をしてしまったというわけ。海とわたしはそれから毎日のように会話した。宇宙の不思議や風の噂や最近読んだ本の話まで、いろいろなことを話した。海とわたしはお互いにとってとてもよい話し相手になった。

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詩(九四)

思っていたよりも疲れていたのだろうか、ついうとうとしてしまった。目を覚ますと、わたしは列車に乗っていた。ぼんやりしていて、寝入ってしまう前のことはあまりよく覚えていない。周りはとても薄暗くて、何もよく見えない。そのために、あまり状況が把握できずにいた。だが、がたごとというレールの上を走る音は聞こえている。その音に合わせて、振動したり揺れてはいる。列車は走っている。そして、わたしはそれに乗っている。はて、わたしは今どこに向かっているのだろう。なんの目的があって、この列車に乗ったのか。いや、寝ているうちに乗せられたのか。右隣にいた人にどこ行きの列車なのか聞いてみた。「これは天国に向かっている」と言う。左隣の人にも聞いてみた。「これは地獄に向かっている」と言う。この客車には窓がない。外の景色が見えない。薄暗い。がたごとという音だけが聞こえる。まるで貨車の中に詰め込まれた動物のようだ。そのとき思い出した。わたしは強制収容所に連れてゆかれるのだということを。どうやら、もうすぐ目的地に着くようだ。だんだん減速している。汽車がブレーキをかける音がする。

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詩(九五)

どうしたことか、わたしはわたしの名前を忘れてしまった。ちょうど通りかかった人に、わたしの名前を知っているか聞いてみた。すると、その人は「春木オニアさんですよね」と言った。まったく身に覚えがない。本当にそれがわたしの名前なのか、念のため別の人にも聞いてみた。「あなたは、たしか浦佐もどなさんですよね」。さっきの人とは違うことを言われた。はたして、そんな名前だっただろうか、ちっともぴんとこない。どちらが本当なのか、さらにわからなくなる。別の人にも聞いてみた。「ええと、すごくヤクザみたいな名前だったと思います。以前、そんなふうに思いました」。はて、ヤクザみたいな名前とはどんな名前なのだろう。聞けば聞くほどわからなくなってくる。どうも、人の言うことというのは、もはやちっともあてになりそうにない。どの人の記憶も、なんだかとても曖昧すぎる。それに第一、あの人たちは本当にわたしのことを知っている人なのだろうか。誰かほかの人と勘違いしているか、もしくは口から出まかせを言っただけなのではないか。わたしはわたしの名前を忘れてしまった。もはや思い出せそうな気がしない。

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「過ぎた春・香港を諦めない」



BS世界のドキュメンタリーで「香港を諦めない 雨傘運動から10年」が放送された。これは今から十年前の香港の民主化運動、雨傘運動で主導的な役割をはたした学生グループのうちの一人、ネイサン・ロー(羅冠聡)へのインタヴューを軸に構成されたドキュメンタリー番組である。今は(香港警察から指名手配されていることもあり)公の場で発言する機会がかなり限られているネイサン・ローの貴重なロング・インタヴューとなる(オリジナル版は八十三分、BS世界のドキュメンタリーでは五十分の短縮版で放送されている)。二〇一四年九月に民主派学生デモ(雨傘運動)が起きたとき、ネイサン・ローは二十一歳の大学生、ジョシュア・ウォン(黄之鋒)とアグネス・チョウ(周庭)はともに十七歳の高校生だった。この若い学生たちのグループは香港の街角で立ち上がり、その活動は大きな社会運動へと膨れあがっていった。彼らが要求していたのは、香港の自由と自治と民主主義を取り戻すための大人たちとの対話と真の普通選挙の実施であった。多くの市民を巻き込んでデモ隊は二ヶ月に渡り市街の道路を占拠し続けた。しかし、最後は警察によって排除される。



二〇一六年、ネイサンはジョシュアとともに政党・デモシスト(香港衆志)を設立し、立法会議員選挙に立候補する。そして、見事に当選をはたす。ネイサンは二十三歳で史上最年少の香港立法会議員となった。しかし、翌年には議員資格を剥奪される。登院初日に議場で行なった(マハトマ・ガンジーの言葉を引用した)議員就任の宣誓が、慣例通りではなかったために無効扱いになってしまったのだ。きわめて呆気なくデモシストが香港の政治の内部から改革を進めてゆく道は閉ざされた。そして、その翌月には雨傘運動扇動の控訴審において禁錮七ヶ月の有罪判決を受ける(実際の収監は二ヶ月)。これはもうネイサンやジョシュアたちに対する嫌がらせともいえるような難癖をつけての言論封圧であった。北京の中国共産党の意を受けて動く香港政府はもはや手段を選ばなくなっていた。それだけ、この若い政治運動のリーダーたち、新しい世代の民主活動家たちのことを北京は脅威に感じ恐れていたということなのだろう。そして、二〇一九年六月には逃亡犯条例改正に反対する大規模デモが起き、その後の国家安全法反対デモへとつながってゆく。



逃亡犯条例改正反対デモは百万人規模の抗議運動に膨れあがり大きなうねりを見せはじめていたが、ネイサンたちが表立ってデモの先頭に立つようなことはなかった。このデモに明確なリーダーはおらず、主導する組織も存在しなかった。これは香港の市民が、雨傘運動の失敗や過去のさまざまな政治運動や社会運動から学んだことでもあった。ひとつの中心をもたず定まった形ももたないマルチチュードの闘争としてのきわめて先鋭的なデモンストレーションが、民主化を求める香港の地で展開されていたのである。当時、ネイサンはメディアを通じてデモ隊(香港市民)が要求していることを世界にむけて解説・説明するという形での運動のサポートを積極的に行なっていた。香港のマルチチュードが雨傘運動によって目覚めたことは明らかであった。香港の自由と自治と民主主義が格段に切迫した状況にあることも明らかであった。ただし、マルチチュードの闘争は雨傘運動のころよりも明らかに過激化していた。コロナ禍にもデモ隊と警察の衝突は散発的につづいた。しかし、その間にも中国の国家安全法の香港への適用の時は迫っていた。



中国の国家安全法は、いかなる言論や活動であろうとも、それが国家の安全を脅かす政府に批判的で反政府的なものと判断されれば、警察によっていくらでも厳しく取り締まることができるようになる法律である。習近平に権力が集中するようになった二〇一五年に成立・施行され、それを雨傘運動以降の反政府的な民主化運動の熱が高まりつづけている香港にも適用しようという動きが、二〇年の全人代にはあった。これは雨傘運動の裁判で有罪判決を受け、理不尽な理由で立法会議員の資格を剥奪されているネイサンにとっては、非常に由々しき問題であった。おそらく、中国政府が国安法によって香港で真っ先に検挙しようと狙っているのは、ネイサンやジョシュアのような近年の民主化運動を象徴する人物たちであることは間違いのないところであった。香港の市街地で反国安法デモが繰り返されるなか、北京の全人代では着々と法整備の手続が進められ、六月三〇日に全会一致で香港国家安全維持法案が可決成立した。この日にデモシストは解散。翌七月一日に法律は施行され、デモ隊の中から初の国安法による逮捕者が出た。



二〇二〇年七月二日、ネイサン・ローはロンドンにいた。全人代で国安法が可決され、施行されたその翌日にはすでに香港を脱出していたのだ。実際、何かあればすぐに国安法違反の容疑をかけてくる香港警察からの民主活動家や民主派メディアへの弾圧・締め付けは一層激しいものとなっていた。北京の共産党と直結した警察国家と化した香港は、もはやネイサンにとって常に身の危険を感じる場所でしかなったのだろう。ジョシュア・ウォンは国安法の成立を「世界がこれまで知っていた香港の終わり」と書いた。まさにその通りだった。かつての香港はもはやそこにはなくなってしまったかのようであった。香港から見れば、もはやネイサンは一人の国外逃亡犯でしかなかった。それから三年が経ち、撮影スタジオでもなんでもない何もないがらんとしたビルのフロアでネイサンはカメラの前の椅子に腰掛けインタヴューの質問に答え、この十年間の香港の民主化運動について語っている。この三年の間に、香港警察は国安法違反の容疑でネイサンを指名手配し、懸賞金をかけてその行方を追っている。英国政府はネイサンを政治亡命者として受け入れた。



旧宗主国である英国には香港から三十万人以上が移住すると想定されている。民主化運動のデモに参加しただけで警察にマークされてしまうような状況となり、多くの市民が英国やカナダ、オーストラリアへと移住した。そして、デモ活動での逮捕歴や検挙歴のある人々は、身の危険を感じてさまざまな手を講じて香港を脱出し国外逃亡者・政治亡命者となった。このような国安法によって香港の地にとどまることが難しくなってしまった離散民のことを香港ディアスポラという。ネイサンもそのひとりである。彼らは、いつの日か香港に帰ることを夢見て、遠い異国の地で今も声を上げ続けている。香港を諦めない、と。ただし、遠く離れた場所へ退避したものがいる一方で、現在も香港の地で戦い続けているジャーナリストもいる。NHK-BSでは、そうした勇敢なジャーナリストたちの姿を追った「それでも声を上げ続ける~香港記者たちの闘い~」と題されたドキュメンタリー・シリーズを放送している。彼らは「世界がこれまで知っていた香港の終わり」の後の香港の姿を取材し続けている。



国安法による取り締まりが厳しくなるとともに香港の民主派メディアはほぼ一掃されてしまった。それでも、記者たちは今できる範囲内のことを行い、香港の今を追い続け、ジャーナリストとしての矜持を胸に香港人の声を発信し続けている。また、対中国共産党の最前線として台湾を新たな戦いの場に選ぶ香港のジャーナリストもいる。グローバリゼーションの時代であるから、もはや地球のどこからでも香港について、香港の未来について、世界に向けて発信できる。香港のジャーナリストが地域の住居問題について取材して記事を発信するのも、ネイサンが遠い異国の地でメディアのインタヴューを受けるのも、もはやそう大差はない。だがしかし、その場に留まっているものとその場を離れたものの間には、何かしら温度差のようなものは感じられる。ただし、いずれにしても一時に比べれば熱はかなり冷めてきている。かつて知られていた香港はもうほぼ終わってしまっていて、状況は一向に好転しそうにない。時間の経過とともに国安法は香港人の日常に当たり前に存在するものになってゆく。そして、それにより当たり前のように状況は悪化し続けるのだ。



最後の香港総督であったクリストファー・パッテンは、このネイサン・ローのドキュメンタリーの中で、香港の人々の心その中心にある核の部分までは、いくら中国政府であろうともその手は及ばないであろうし触れることも奪うこともできないといったようなことを語っている。だが、そうした香港人の心のようなものが存在することのできる場所すらも、今はもうきわめて狭められてきている。そして、香港人が香港人であり続けるためにできることもきわめて限られてきているのだ。この状況では、冷めずに熱いままでいることのほうが難しい。それに、ほんの少しでも今もまだ熱いままでいる素振りなどを見せたりすれば、すぐさま国安法違反で逮捕され収監ということにもなりかねない。この香港の国安法とは、それが香港の中であろうと外であろうと、法が及ぶ範囲に制限は設けられていない。地球上のどこにいようと国安法違反の容疑はかけられてしまうのである。そんな現在の状況の中で、ネイサン・ローはマイクとカメラの前に座って、メディアからのインタヴューを受けて語っている。



二〇二三年に制作されたこのドキュメンタリーの原題は、「Who's Afraid of Nathan Law?」という。直訳すれば、「誰がネイサン・ローを恐れるのか?」という問いである。しかし、この問いかけは、まさに表と裏の意味をもち、それぞれに異なる読解を可能にする。これを、ややネガティヴな問いかけとして読むと、たったひとりきりになった雨傘運動のリーダーを、もはや誰が恐れるのか?という意味に受け取れる。ネイサンとともに雨傘運動を主導したジョシュア・ウォンは度重なる逮捕・収監により警察にマークされていて香港の外に一歩も出ることができなくなっている。また、もう一人のデモシストのメンバー、アグネス・チョウは、国安法違反で逮捕起訴され七ヶ月間の収監の後にカナダの大学院への留学を目的に渡航し香港から離脱した。もう二度と香港には戻らないと表明しており、現時点ではほぼカナダに亡命した状態にある。このような状況にあって、かつての若き民主活動家の中では、ただひとりネイサンだけがカメラの前で香港について発言できている。だが、たったひとりきりになったネイサン・ローを、もはや誰が恐れるというのか。

一〇

作品の原題を、逆に香港の民主派の側からのポジティヴな問いかけとして読むと、今もまだネイサン・ローのことを恐れているのは誰か?という意味に受け取ることができる。香港警察は全世界に向けてネイサンを公開指名手配しており、その身柄に百万香港ドルもの懸賞金をかけている。ということは、つまりたったひとりきりになってしまった雨傘運動のリーダーを、今もまだ中国の習近平政権は恐れているのである。香港の民主化運動とともに上がった火の手から中国全土の複数の都市に火の粉が飛んで飛び火でもした日には、もはやそれを抑えきることはできないかもしれない。そういう民主化革命のような事態が香港からドミノ倒し的に起こることを北京は非常に恐れている。よって、今もまだネイサン・ローのことを恐れているのは誰か?という問いに答えるとすれば、習近平がネイサン・ローを恐れているということになる。どれほどに堅牢な蔵であったとしても、火事の際にはほんの小さな鼠穴から火が入り内部が全焼し焼け落ちるということもある。国安法施行翌日にネイサンが香港を脱出したのは、土蔵にあいた小さな鼠穴からであったのかもしれない。

一一

とはいっても、ネイサン・ローは今、政治亡命者であり、たったひとりで異国の地にいる。これまでは多くの仲間たちとともに活動してきた人物でもある。はたして、ひとりで何かできるのだろうか。おそらく、できることはとても限られている。だが、それでも香港の未来のためにできること、輝かしい未来のための最良の道を模索している。インタヴュー取材などを通じてのさまざまなメディアでの発言・発信などとともに、英国への香港からの移住者や亡命者の受け入れの事業にも携わっている。この事業には、香港関係のドキュメンタリーで度々取材を受けている香港の英国総領事館の元職員であり国安法違反で指名手配されている亡命者のサイモン・チェン(鄭文傑)も携わっている。香港での民主化運動と比べれば、それはあまり目立たぬ地味で静かな活動である。しかし、ネイサンやサイモンにとって、それはあの香港での直接的な行動と決してかけ離れたものではない。すべては地続きなのである。そして、いつの日か移住者と亡命者の全員で香港に帰還することが、その活動のゴールである。

一二

今の香港の状況が、すぐに急激に変わるとはもう思えない。もしも、何か変化の時がくるとしたら、もはやいつかは来るであろう習近平国家主席の死の時を待つよりほかはないような気もする。幸いなことにネイサンたちはまだ若い。そして、未来がある。習近平とは四十歳もの年齢差があることは大きい。いつかは訪れる習近平政権の終わりとともに、もしかすると状況を打開する道が開けるかもしれない。その時に世界の状況がどうなっているかにもよるだろうが、そこに一縷の希望を託すしかないのではないか。香港ディアスポラとしてのサイモン・チェンを取材したドキュメンタリーの中で、サイモンががロンドンの街角で行われていた天安門事件の犠牲者の追悼集会において、国外逃亡した民主活動家と出会う場面があった。彼は、もうすでにロンドンで三十年もの亡命生活を送っていて、ずっと故国には戻れていない。往時は若い学生だったのだろうが、今は白髪頭で疲れきっているように見える。そんな民主活動家の姿を見ていると、まるでネイサンやサイモンの未来の姿を見ているような気もしてしまうのだ。

一三

映画「THE CROSSING~香港と大陸をまたぐ少女~」を見た。これは二〇一八年に製作されたバイ・シュエ(白雪)監督による中国映画。二〇一四年の雨傘運動と二〇一九年の民主化デモの狭間の時期に、香港と大陸にまたがる物語を映画化した、なんともスリリングな感じのする作品である。物語は、文字通り香港と大陸をまたいで一国二制度の境界を往来しながら紡がれる。世界有数の港湾都市にして大都会の香港と、そこに隣接する中国第四の都市である経済特区の深圳。主人公の十六歳の少女・ペイは、中国人の母親と暮らす深圳の集合住宅から香港の高校へ毎日越境して通学している。別居中の父親は香港人であり、現在は香港在住でトラック運転手をしている。香港人の子女であるペイは香港市民権をもち、香港で教育を受ける権利を有する。そのため、深圳から香港の市街地まで電車で通学している。十六歳のペイは、特別行政区になる以前のまだイギリスの統治下にあったころの香港を知らない世代である。そして、生まれた時から一国二制度が当たり前のものとしてあり、香港人社会の中で中国化が着々と進んでゆく中で育ってきた世代でもある。

一四

深圳から越境通学してまでペイが通っている香港の高校なのだが、香港政府の教育制度改革がうまくいってないからなのか、元々そういう学力ランクの学校だからなのか、教室でまともに授業を受けている生徒は見たところあまりいない。一応、ペイは机に齧りついてはいるが、授業中にしているのは小遣い稼ぎのためのスマホケース加工の内職である。なぜ、そんなことを学校でしているのかというと、同級生のジョーとクリスマスに日本の温泉に旅行にゆく計画を立てているから。少しまとまった金が必要なのだ。香港の裕福な家系の一族に育ったジョーにとっては、日本旅行もふらっと遊びにゆく感覚だが、深圳在住の決して裕福ではない家庭に育ったペイにとってはそう簡単なことではない。そんな時に、ひょんなことをきっかけにジョーのボーイフレンドであるハオを通じて香港から深圳へ最新機種のスマホを運ぶ秘密のアルバイトを始めるようになる。毎日、越境通学している女子高生のペイが鞄の中に最新スマホを忍ばせて香港から大陸への密輸の仕事に従事する。だから、香港と大陸をまたぐ少女なのである。

一五

ハオの家は香港の下町で屋台の中華そば店を営んでいる。普段はハオも家業の手伝いをしているが、香港の上層の裕福な港猪と呼ばれている若者たちと遊ぶための金欲しさに、ホアさんの密輸団の一員となって運び屋の仕事にも携わっている。その裏の仕事にハオの紹介でペイも関わるようになる。香港から深圳へ品物を運び、領収書と引き換えに代金を受け取ってくるだけ。手軽に稼げるバイトのようではあるが、密輸はれっきとした裏の稼業である。つまり、普通のバイトではなく闇バイトである。その証拠に、ペイが初めてホアさんのアジトに行ったとき、仕事を始める前に身分証明書を提出させられIDカードの情報をノートに控えられている。完全にブラックな仕事の匂いしかしない。以前にペイが飲食店でバイトした時には、身分証明書をちらっと見せて確認をしただけで、その当日から仕事ができたのとは大きな違いである。だが、それでも早急に日本旅行の費用が必要なペイにとっては、仕事の内容がどうこうよりも実入りがよいほうが優先されるのである。ジョーの彼氏で顔見知りでもあったハオの紹介という安心感もあったのだろう。

一六

越境通学のついでに制服姿のごく普通の女子高生が税関でちっとも怪しまれることなく鞄の中に忍ばせた新型スマホを香港から深圳へ何台も運ぶ。難なく仕事をこなし成果を上げてゆくペイは、すぐに組織の女ボス・ホアさんのお気に入りとなる。しかし、その様子を見たハオや密輸品の深圳側での受け取り役であるシュエイといった組織の内部の人間たちは、次第にあまりホアさんの仕事に深入りするなと忠告をしてくるようになる。ペイは自分で仕事をして金を稼いで何が悪いのだと、そうした意見に対してあまり聞く耳をもたない。だが、スマホの密輸などは組織の仕事としてはまだ序の口の方であり、その先には拳銃の密輸などさまざまな闇の仕事が控えている。手軽な闇バイトと香港の本物の裏社会は、ほんの紙一重のところで隣り合っている。香港と大陸をまたぐ少女が、日常のすぐ目と鼻の先にある表と裏の社会をわける一線を越境してしまうのか、というところで周囲の人間の立場や思惑を巻き込んで十六歳のペイのひと夏の青春の物語が展開してゆく。最終的には、こうした映画の常道として破局が待ち構えているわけであるのだが。

一七

映画の時代設定は、二〇一五年とされている。香港で雨傘運動が起きた年の翌年の夏である。雨傘運動の際には、二ヶ月以上に渡り市街地の道路を占拠したデモに学校をサボって参加している高校生に対してデモに参加している大学生たちが勉強を教える青空教室のような光景が見られたと、ネイサン・ローはインタヴューで語っている。しかし、その翌年のペイやジョーの学校生活に雨傘運動後の空気感のようなものはさっぱり感じられない。ペイとジョーが考えていることといえば、クリスマスの日本旅行や富裕層の子女(港猪)が催す船上パーティなど遊ぶことばかりである。そこに見られるのは、あの雨傘運動なんてなかったかのような香港の姿である。これにはおそらく理由がある。この映画は、香港と深圳を舞台とする越境をテーマとする映画ではあるのだが、れっきとした中国映画でもある。よって、映画の中で雨傘運動や民主化運動について少しでも触れれば、中国の検閲に引っかかり映画の公開が危ぶまれるし、場合によっては監督や制作関係者が国安法違反の容疑をかけられて摘発ということにもなりかねない。

一八

映画の序盤にペイが母親の寝室で煙草をくすねる場面がある。通学前の制服姿のペイが、まだ寝ている母親を起こさぬように高い所に置いてある煙草の缶を取ろうとして背伸びをする。その際に窓から差し込む朝の光がペイの制服のスカートの裾を少し透かすのだ。すると、その裾に黒い四角いものがついているのが見える。あれは制服のスカートが風でめくれたりしないように裾の折り返しのところにマグネットシートのような薄っぺらいおもりを入れて縫ってあるのだろう。そういうところに、この映画の美術や衣装の芸の細やかさのようなものを感じる。かなり徹底的にリアリティが追求されているのだ。しかし、香港の民主化運動に関係するものは、少しも画面の中に映り込んでこない。その匂いすら、この映画の中の香港には漂っていないのだ。ジョシュア・ウォンの言葉を借りていうならば「世界がこれまで知っていた香港」が、まだここにはそのまま存在しているのである。そのことがかえって逆に異様に感じられたりもする。雨傘運動のデモ隊に向けて警察が放った催涙弾の匂いは、どこに消えてしまったのだろう。

一九

この映画「THE CROSSING」では、その結末において登場人物は誰ひとりとしてハッピーな物語の終わりを迎えていないようにも見える。そこには、もう何をしたって拭い去れないような閉塞感だけが残されている。そして、それはこれからもずっと続いてゆくような予感しかない。そうした閉塞感こそが、香港そのものなのだとすら思えてくる。それぞれの人間にそれぞれの人生のドラマがあったとしても、それはすぐに香港を取り巻いている巨大な閉塞感の中に飲み込まれていってしまう。香港の中国返還以降、その閉塞感はずっとそこに漂いつづけている。一国二制度という先天的な矛盾を抱えた体制の中で、その閉塞感はますます膨らんでゆく。これまでも、今も、これからも。段々と着実に中国化してゆく現実に直面し、閉塞感や重苦しい空気感が極限まで高まり、あの百万人単位の市民が立ち上がった雨傘運動や民主化デモなどがあったのであろう。しかし、それでどうなったということもなく。香港は香港のままずっと閉塞感に包まれていて、今や一国二制度もほとんど有名無実化していて、香港は大陸の一部へと飲み込まれつつある。

二〇

ロンドンに政治亡命したネイサン・ローは、香港人の父親と中国人の母親の間に深圳で生まれた。この家族構成や境遇は「THE CROSSING」の主人公のペイと似ている。ただし、ペイは香港で生まれ深圳で育ち、ネイサンは六歳で香港に転居したという点が大きく異なる。そのため、ネイサンは越境通学する越境児童ではなかった。ネイサンは、新しい友達を作るのが苦手な内向的な性格だとドキュメンタリーの中で語っている。それは、もしかすると六歳のときの越境と関係があるのかもしれない。深圳の保育園や幼稚園では北京語(普通話)だったのが、広東語を使う香港の学校に通い始めて、初めは言葉がわからずなかなか学校に溶け込めなかったのではなかろうか。それで、いつしかネイサンは一人を好む少年になっていったのかもしれない。わたしはまったく中国語にあかるくないので聞き取れないのだが、おそらくペイは学校では広東語で家では北京語と日常的に二つの言語を越境する世界に生きている。バイ・シュエ監督は、こうした境遇の子供たちは香港でも深圳でも境界のどちらの側にいても移民のような感覚を味わっているという。

二一

毎日のように越境して二つの異なる世界を行き来しているペイは、二つの異なる言語をそれぞれの世界で使い分けながら、どこにも自分の本当の居場所はないように感じている。やっと、本物の家族のように接してくれるホアさんと出会い、その密輸団の一員として認められてゆくことで自分の居場所を見つけかけたのだが、ペイとハオが背信的な動きを見せ始めたところからホアさん関連の密輸の仕事は警察に摘発されてしまい、すべては破局にいたる。毎日のように来る日も来る日も境界をまたぎ越境していても、どちらの側にも心安らぐような場所はなく移民のような感覚とともに生きてゆかねばならない。今、ネイサン・ローは亡命者としてロンドンで生活している。そのように移民として生きることは、深圳に生まれ香港で育った先天的な越境者のもって生まれた宿命のようなものであったのだろうか。いつの日か香港に帰ることをネイサンたちは夢見ているが、そこはいつの日かネイサンが自分の居場所だと感じられるような場所になるのだろうか。世界がこれまで知っていた香港が終わってしまった今、深圳生まれの香港人はずっと移民のままなのだろうか。

二二

香港で逃亡犯条例改正反対デモや国安法反対デモが起きていたころ、ペイはちょうど二十歳になっていたはずである。高校を卒業して進学をしていれば、大学生である。絵が得意だから専門学校に進んだであろうか。それとも、もう社会に出て働いているだろうか。ペイは、あれらの民主化デモに参加していただろうか。深圳に暮らす香港人にとって民主化デモとは、対岸で起きている火事のようなものだったのだろうか。スマホ密輸に関わったことで保護観察処分を受けている(おそらく未成年のペイの罪は、彼女を一味に引き入れたハオがすべて負うことで、結果としてペイを庇ったのではなかろうか)ので、香港の警察と対峙することになるデモの現場に近づくようなことは敢えて避けていたであろうか。世界がこれまでに知っていた香港が終わってしまっても、いつか香港に雪が降ることをまだ願っているだろうか。ペイの目には変わってしまった香港はどう見えているのだろう。香港に雪が降るような、まさか起こるはずもないようなことが、香港では実際に起きた。今や香港と深圳の境界は、段々と薄れつつある。

二三

二〇一六年のネイサン・ローが立候補した立法会議員選挙の投票率は六十パーセントで、香港返還以降の過去最高の投票率であったといっていた。香港でもその程度のものなのだ。雨傘運動で市民の政治意識が目覚めたといっても、その後の立法会議員選挙で大きく投票率がはね上がるわけでもなく、六割程度の人が投票所に足を運んだだけだった。二〇二四年一〇月に行われた日本の衆議院議員総選挙の投票率は五十三・八パーセントであった。あれだけ政治とカネが問題となり政治への不信感が高まっていたにもかかわらず、大きく投票率がはね上がることもなく、前回の投票率をやや下回る結果であった。たぶん、香港も日本も似たようなものなのだろう。多くの市民は民主主義にそれほど関心をもっていない。物言わぬ多数派は、自分さえ安定して日々を生きられていればそれでよくて、決められたシステムの中でただシステムの促すままに流されてゆくだけである。そして、取り返しのつかないところまできたところで、初めてこんなはずではなかったという。その失敗を何度も繰り返す。今まさに香港は失敗し、日本はまた失敗しようとしている。

二四

香港には常に閉塞感が付きまとい、あらゆるものが閉塞感の中にある。香港の自由と自治と民主主義を求める民主派にとっては、それは近年さらに色濃いものとなってきている。もはや街はすっぽりと閉塞感に包み込まれてしまっていて、ちっとも先が見通せない状況がつづいている。このまま歴史は、香港には何もなかったことにしてしまう方向に流れてゆくのであろうか。一国二制度は、ただの絵に描いた餅であり、西欧的な考え方による理想でしかなかったということにされてしまうのか。ただ、その閉塞感を香港の当たり前の日常と感じて、そのただ中で香港人らしく生きている人々もいる。その人たちは民主派には属さず、かといって特別に親中派というわけでもない。しかし、香港に住む人のおそらく半分ぐらいは、そういう港猪的な性質をもつ香港人らしい香港人なのである。逆に、中国大陸の側から見れば、南シナ海に突き出した香港は、ある意味では西側の帝国による植民地主義の名残でもある。長く患った病気の患部が、そのままそこに残されているようなものだ。そうした負の歴史の払拭を目指すことがアジアにとっての正道であり、目指すべき未来でもある。

二五

中国とアジアの正しい未来のためには、ネイサン・ローたちのような前世紀の植民地主義の記憶(英国式政治、西欧的民主主義)は、すみやかに跡形もなく消し去られなければならない。そこで、ようやく初めて本当の中華人民共和国の歴史が始まる。あの十九世紀なかばの阿片戦争の敗戦で失った香港が、約二百年ぶりに大陸の一部として戻ってくる。世界の各地に散らばった香港ディアスポラたちは、香港人としてではなくひとつの中国の一市民としてならば、そこに受け入れられるのであろうか。しかしながら、それはもうある意味において二十一世紀の文化大革命なのではなかろうか。または、香港人の精神性を根こそぎにする民族浄化だろうか。だが、この流れを押しとどめる術を、今はまだ誰も持ち合わせてはいない。このままでは、世界がこれまで知っていた香港は完全に消え去ってしまうであろう。そして、これは、習近平が(その目の黒いうちに)香港を飲み込んでしまうか、その政権が終わりを迎えるときまでネイサンたちが辛抱強く立ち続け、香港の自由と自治と民主主義を取り戻すための声をあげ続けていられるかの戦いでもある。

二六

映画の最終盤にペイが鮫を海に逃すシーンがある。ホアさんの密輸団が警察に摘発(ペイとハオが頭領のホアさんを介さぬ仕事をしている尻尾を掴んだホアさんが現場を押さえるために深圳の受け取り役のアジトまで出張ってきていたところに深圳の警察が踏み込んでくる。これは実に象徴的な場面である。いつものこことは違う異質な場所へ踏み出してゆく越境とは、常に危険とリスクをともなうものであることがわかる)されてストーリーが破局を迎えた後は、あまり台詞もなく映像も直接的に説明することのないとても静かなエピローグとなっているので、はっきりとはわからないがペイが香港の海(南シナ海)に逃す鮫はおそらくジョーの伯母さんの豪邸の水槽で飼われていた鮫なのだろう。ジョーの伯母さんは海外での仕事が多く、ジョーも傷心旅行か留学なのか香港にはいないので、ペイに水槽の鮫の世話か処分を頼んだ経緯(かなり身分階層の違うペイのことをジョーは友達というよりもどこか自分の召使い的に見ているようなところがある)でもあったのだろうか。港の桟橋からペイはペットの小さな鮫を南シナ海に放流する。

二七

特に何の説明もないため、どんな理由があり何の目的があってペイが鮫を海に逃したのかはわからない。だが、まず思い浮かぶのは、それがハオへの罪滅ぼしの意味があったのではないかという点である。ハオは脇腹に鮫の刺青を入れていた。そこでジョーの伯母さんの家の水槽で飼われていた鮫を、おそらくペイの分まで罪を被り密輸罪で逮捕され刑務所に入れられているハオに見立てて、水槽から解放し自由の身になれるように海に逃したのではなかろうか。また、このシーンは、どこもかしこも重苦しい閉塞感に包み込まれている香港から脱出したい・逃げ出したいという(どこにも自分の居場所のない)香港人の気分や感覚を表しているようにも見える。しかし、水槽の中で飼われ、水槽の中で育った鮫のように、誰かの力を借りなければ香港人は、香港の外に脱出することも逃げ出すこともできない。そして、越境には、常に危険とリスクがともなう。水槽の中の世界しかしらない鮫が、いきなりだだっ広い海へと投げ出されてすんなりと独り立ちして生きていけるとは限らない。鮫が泳いで消えていった黄昏時の暗い海をペイはいつまでも眺めている。

二八

越境には、常に危険とリスクがともなうものである。二〇二〇年七月に香港を脱出したネイサン・ローは、警察の監視の目から逃れるために変装して空港に向かい飛行機に搭乗した。その間ずっと自分の心臓の鼓動の音が大きく耳に聞こえていたという。ほとんど気が気でない逃亡劇だったのだろう。ペイも初めてひとりでスマホを運ぶ際には、そのような状態であった。緊張して喉が乾くのか物陰でごくごくと水を飲み、意を決したように税関の方へ歩き出す。明らかにちょっと挙動不審な女子高生なのだが、特になにごともなく税関を通過し隠しもったブツとともに越境に成功する。制服姿の越境児童なので殊更に怪しまれるということもなかったのだろう。このように、越境は、時として生易しいものでないことになることもある。ペイとジョーが通う高校の教室には、ブルカを着用している女子生徒がいる。彼女たちもまた越境している存在である。香港の富裕層の家庭では、多くの家政婦や家事ヘルパーが雇われている。そして、そのほとんどはフィリピンやインドネシアからの移民である。

二九

フィリピンやインドネシアから越境してきた家政婦やお手伝いさんたちが香港に移民として定着し、その子女たちが香港の学校に通って教育を受けているということなのだろうか。彼女たちはイスラム教徒であるため、教室内でもブルカを着用して授業を受けている。フランスではブルカ禁止法などが成立しているが、香港の女子生徒たちは制服やベストの色合いに近いブルカを身に着けていて特に違和感もなく教室内に溶け込んでいる。彼女たちは香港で教育を受けて、香港社会の一員として活躍してゆくのであろうか。それとも、広東語と英語をきちんと使いこなせる家政婦やヘルパーとして、より富裕な階層の香港人家庭に雇われるようになってゆくのだろうか。政治面では後退したが、香港は経済や生活文化の面では多様化がさらに進んでいる。これで、このまま中国になれるのだろうか。いや、中国は、今や下層のアジア人・移民の奴隷的な労働の上に成り立つ超国家・帝国の完成を目指しているような節すらある。そして、その下層のアジア人の中には、もちろん日本人も含まれることになるのだろう。

三〇

映画「THE CROSSING」の原題は「過春天」という。二〇一九年の大阪アジアン映画祭に出品された際には、原題をそのまま和訳した「過ぎた春」というタイトルで上映された。物語の季節は夏から秋にかけてのようだが、季節の移り変わりともに主人公のペイのひと夏の青春が過ぎ去ったということか。より大きな視点から見ると、雨傘運動後の時代から振り返ると、香港の春はすでに過ぎ去っていて、もう二度と戻ってこないということを意味しているタイトルのようにも思える。ラストの香港の繁華街を一望することのできる山の上に母親とともに登るシーンで、ペイの頭上からひとひらの雪片が舞い落ちてくる。あの雪も、これから香港に訪れることになる長い冬の時代を暗示しているようにも思えるのである。過ぎ去った季節とこれから来る季節のその狭間の香港にペイはいる。まだまだ、彼女はこれからもいくつもの越境をしてゆかなければならないのだろう。あの雨傘運動からまだ十年しか経っていない。香港にとっての変化とは、まだまだ何もかも始まったばかりなのかもしれない。

20250116

詩(九六)

ドアを叩く。扉をノックする。ドアをノックする。扉を叩く。知っているドアを叩く。知らない扉をノックする。知らないドアを叩く。知ってる扉をノックする。知っているドアをノックする。知らない扉を叩く。知らないドアをノックする。知ってる扉を叩く。返事はない。ドアを叩く。返事はない。扉をノックする。返事はない。ドアをノックする。返事はない。扉を叩く。どんなに叩いても返事はない。どんなにノックしても返事はない。知っているドアは閉ざされている。知らない扉は閉ざされている。知らないドアは閉ざされている。知ってる扉は閉ざされている。どんなに叩いても返事はない。どんなにノックしても返事はない。すべてのドアは閉ざされている。返事はない。すべての扉は閉ざされている。返事はない。ドアを叩く。扉をノックする。ドアをノックする。扉を叩く。返事はない。ドアを叩く。返事はない。扉をノックする。返事はない。ドアをノックする。返事はない。扉を叩く。返事はない。どんなにドアを叩いても、どんなにドアをノックしても、どんなに扉を叩いても、どんなに扉をノックしても、返事はない。

20250118

詩(九七)

老人たちが寄り集まって椅子に座って海を見ている。海を眺めるためだけに老人たちはここにくる。海が間近に見下ろせる高台に。昔どこかの海の家で使っていた、さんざん日光にさらされて古ぼけた白い椅子にちょこんと座って。海を渡ってくる船が港に着くのを見るために、港が間近に見下ろせる高台にやってくる。だが、最近はどんなに待っても船はやってこない。くる日もくる日も船はやってこない。老人たちは日毎に月毎に年毎に少しずつ年老いてゆく。髪の毛は白くなり、皮膚の皺はどこまでも深くなる。しかし、それでもあいもかわらず椅子に座って海を見ている。白い古ぼけた椅子にちょこんと座って、じいっと海を見つづけている。海を見下ろせる高台にひゅうっと冷たい風が吹いてきて、老人たちの丸い背中がさらに縮こまる。昔どこかの海の家で使っていた白い古ぼけた椅子が雨に濡れている。今日は一日中ずっと雨が降っている。こんな日は港を間近に見下ろせる高台に、老人たちはひとりもやってこない。そして、今日もまた港に船はやってこない。くる日もくる日も船はやってこない。もう、どんなに待っても港に船はやってこない。

20250120

詩(九八)

ある朝、目が覚めると何かがなくなっていた。いつもと変わらぬ朝だったが、そこにはもうその何かだけがなくなっていた。確か昨日まではそこにちゃんとあった気がするのだが、それがもう何だったのかも思い出せない。それでも、見たところ人々はみな楽しそうにしていた。いつもと何も変わったようなところはない。人々は、いつだってとても楽しそうにしている。ただ、楽しそうにしてはいるけれど、本当の感情は表に出していないようだ。たぶん、心の奥のどこかには何か感じるものはあるのだろう。だが、それがちっとも表には出てこない。もはや、その心の奥の方にあるもののことなんて忘れてしまったかのように(装って)、誰もがみな楽しそうにしている。人々はもう誰かがどこかで話したことだけしか話さなかった。もはや目新しいことなんて何ひとつないから、何か新しい話題が出てくるはずもない。あるのはすべてもうすでにあったことだけ。人々はいつだって誰もが聞き飽きた話ばかりを話し、それを聞かされていた。なのに、どんなに聞き飽きていたとしても、その感情は絶対に表に出さない。そして、いつだって誰もが楽しそうにおしゃべりを続けている。

20250122

詩(九九)

もう、さびしくなんてないですよ。いつだって、わたしに話しかけてくれる人はひとりもいないけれど。いつだって、わたしに何か返事をしてくれる人はひとりもいないけれど。いつだって、誰も話をする人がいなくて、毎日ひと言も喋らずに過ぎてゆくけれど。だってもう、ここにいるのはわたしひとりきりですから。ここにはもう、わたししかいないのですから。もう、さびしくなんてないですよ。いつだって、じっと黙ったままでいることにだって、もう随分と慣れてきていますから。いつだって、誰もわたしの心配なんてしてくれないことにだって、もう随分と慣れてきていますから。いつだって、ひとりぼっちでいじけたままでいることにだって、もう随分と慣れきってしまっていますから。本当は、本当にたくさんの人がこの世界にはいるんだけど、それでもここにはもうわたしひとりきりですから。わたしに話しかけてくれるのも、わたしのことを心配してくれるのも、もうわたしひとりきりしかいないのですから。もう、本当にちっともさびしくなんてないですよ。本当ですよ。もう随分とこれには慣れてきていますから。もう、さびしくなんてないですよ。

20250124

詩(一〇〇)

その見るからに見すぼらしい風体を見れば、だいたいのことはわかります。あなたはとても孤独な人だ。長い間ずっとひとりきりだったのでしょう。誰とも話しをすることもなく。ずっと黙ったままで。その口はじっと閉じたままだった口だ。そして、誰も彼もがあなたのことを忘れていった。あなたのことを知っていた人たちも、いつしかあなたのことをすっかり忘れてしまって、あなたがいなくなっても、何の問題もなく世界はいつも通りに回り続けていた。あなたはあなたの目の前でかたく閉ざされている扉の外の世界に向けて、くる日もくる日も手紙を書き続けた。しかし、その手紙を読むものは、残念ながら誰もいなかった。あなたの孤独は、返事のこない手紙を書き続ければ書き続けるほどに深くなった。しかし、もしその手紙を読む人がいたとしても、誰ひとりとしてそれを理解できるものはいなかったでしょう。なぜならば、あなたが書いていたのは誰が誰に向けて書いたのかわからないような詩だったからだ。その見るからに見すぼらしい風体を見れば、だいたいのことはわかります。あなたはとても孤独な詩人だ。長い間ずっとひとりきりで詩を書いていたのですね。


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安藤優 Masaru Ando
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