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【小説】水彩紙、紫

前作はこちらから↓

死にたいな、と思った。
君をあたしの隣に居させてしまって、あたしはどんな顔をしていたらいいのだろう。君を彼女さんと別れさせて、一緒に地獄に堕ちてくれる?なんて台詞を吐かせてまで、手に入れて。すごく最低で残酷なのに、幸せだなんて思ってしまって、死にたいな、と。

「天音さん?」
大学の図書館で机に突っ伏しているのを君に見つけられてしまった。“一緒に地獄に堕ち”たあの日以来、初めて会った。高校からの仲のくせにどう接すれば良いのか分からなくなって、顔を背けたまま返事をする。
「約束もしてないのによく見つけたね」
「天音さんはいつもこの席に座るじゃない。窓際、好きだよね」
その好きって言葉にだけ過剰反応して顔が熱くなる。確かに高校の文芸部で図書室にいるときも、常に窓際の席に座っていた。好きなのだ、外の世界に一番近い位置が。色んな音が聞こえてきて、風が吹いて、陽の光が差して、ここではないどこかへ行けそうな気がする。ふと天使が迷い込んできて、あたしに呪いをかける。このまま一生君だけしか愛せないように。
まだ少し寒さの残る午後。三月に向かいつつある気温はまだまだ容赦なく、換気のために細く空けられた硝子の隙間が憎い。図書館がいているときは、ここで何をするでもなくただぼんやりと外を眺めるのが好きだった。
「隣、座っていい?」
君は高校からの後輩だが、こうして敬語を使わない。対等で居たかったあたしがそうお願いしたからで、でも今では、そんなことをしなくても対等の立場かもしれない。同じ罪を抱えて、まるで共犯者だ。
「いつもあたしの向かいに座るのに、隣でいいの」
ぶっきらぼうに言い放つと、君は柔らかに笑った。
「この机大きいんだから、隣じゃないとあんたの手を握れないんだよ」
ずるいひと。あたしがそういう言葉に弱いのを知っていて、わざとからかうように言ってしまう。だけどそれに騙されてあげるあたしもあたしだ。ぎゅっと奥歯が擦れるくらい強く空っぽを噛んで、出来るだけ可愛らしい返答を探した。しかし口から転がり落ちたのは、何の可愛げもない言葉だ。
「好きにすれば」
「……天音さんて、分かりやすいよね。耳まで真っ赤だけど」
「うるさいよ」
思わず顔を上げると君と目が合った。それに気が付いて優しく笑う君がいつも通りで、漸く落ち着いて呼吸をする。何も焦らなくていい、今まで通りでーー。
「そういうとこ。ほんとかわいいよね」
ダメだ。
あたしは叫びたいのを押し殺しながら、また机に突っ伏した。

もう何も隠さなくていいのか。あんたにどれだけ好きとかかわいいとか、天使みたいだなんて言葉を使おうと咎められることはないのか。僕はもう、天音さんに一番近い存在。あんたの一部になりたいけれど、あんたの中で生きたいけれども、それが不可能なのは分かりきっていて、この世界で天音さんを生かしたまま叶うのは恋人という地位だけ。その再上級、ずっと欲しかったものがこの手の中にあるのだから。
天音さん、高崎天音さん。僕が高校一年のときの文芸部の先輩。当時から僕は彼女のファンで、いや、ファンというよりもっと汚くて、欲情ーー彼女が欲しいに近かった。手に入れたい。天音さんになりたい。綺麗で、どこか陰があって、繊細で、青のような、そんな世界を見てみたい。
こんなことをあんたに伝えたら、折角手にしたこの地位すら崩れてしまうのかな。あんたの青みがかった瞳だって潰せば僕と同じように赤っぽくなる。僕と同じだったらあんたのほうからこんな欲を曝け出してくれたら良いのに、こんなことをまた願ってしまうんだから、懲りないな。死んでしまいたい。
彼女の隣に座っていると、いつもと見る世界が違った。向かいから見ていたときは全然気が付かなかったのに、天音さんの耳に三箇所もピアスの穴を発見する。
「天音さんってピアス空けてたんだね」
「空けているだけで、ピアスは持っていないけどね」
あんたがそう言いながら耳を触って、その瞬間耳朶にぎゅっと爪を立てたのを僕は見逃さなかった。その何も塗られていない爪が耳朶を食いちぎるように。
「どうして空けたの」
思わず彼女の手を掴んだ。もし、僕の知らない人が天音さんの耳に触れて穴を空けていたりでもしたらと、確かめたくなったのだ。だが天音さんの返答は予想もしていない、しかし聞かされたら妙に納得してしまう、そんなものだった。
「自分への戒め」
彼女は酷く寂しそうに笑った。

自室の机を占領するノートに書き殴った、天音さん以外に見せたらドン引きされそうなポエムを乱暴に消す。詩を書くことは高校文芸部で天音さんに読みたいと言われ初めてやった。それから自分の感情をノートや原稿用紙に連ねているのだが、書けば書くほど違う気がする。僕の中にいるうちにはまだ艶があるのに、吐き出せばただの生ゴミと化す。まるで血液みたいだ。
別にあんたを殺したいわけじゃない。僕はあんたの創る世界で生きていたいだけだ。あんたが思う愛で僕をぐちゃぐちゃにしてほしい。そしてあんたが僕以外なんてまるで見えないようにと愛したい。あんたをーー。
噎せた。自分の欲望がノートに溢れていくのが嫌で、慌ててペンを置く。夜だから尚更だ。天音さんの前じゃ絶対にこんな僕を見せられない。もしも彼女にこんな僕を知られてしまうなら、それはあの真っ白な肌を返り血で汚してしまうくらい恐ろしいことのように思えた。
いつものように引き出しからカッターナイフを取り出して、それで自分の左腕に直線を引いていく。じっと赤い血が滲んでいて、きっと天音さんの腕は綺麗なんだろうなと思った。戒め。こんなに気持ち悪い思考回路で生きていることが、服を着ずに街を踊ることより恥ずかしいような気になる。こんな自分でいてはならないという、戒め。
戒めといえば、彼女のピアスホールはそれが理由だと言っていたな。もしかして僕と同じで、いや、あんな天使みたいな人が、まさか。そこまで堕ちてはいないだろう。その証拠に、ほら。
“金曜の夜うちで飲まない?そのまま朝まで一緒にいようよ”
そんな連絡ひとつで、首をぎゅっと絞めていた手を緩めたほどに息がしやすくなってしまった。僕は震える手でキーボードを打つ。
“じゃあその日の授業終わり次第、図書館のいつもの席で待ってるよ”
そう送るとすぐ返信があった。
“あたしね、あの席のこと、天使の椅子って呼んでるの”
“どうして?”
“窓際って、天使が迷い込んでしまいそうだから”
いつもの窓際の席。高校の図書室で彼女を知ったときも、天音さんは窓際に座っていた。時に風が細く吹いて彼女の髪を揺らして、その一瞬が永遠に続くかのような、耳鳴りーー。
“分かるよ。僕も天使の椅子って言葉がしっくりくる”
スマホの画面にそう打ち込みながら、この先を僕の通り受け止めて解釈してくれるのはあんた以外にいないだろうと思った。なんてキザで気持ち悪い台詞。だけどきっと、そういうのが好きなんでしょう?そういうことを言ってしまう僕が好きなんでしょう?
“天音さんが天使のようだからね”
既読がつく。天音さんは今画面の向こうでどんな顔をしているのだろう。一が二つ存在するサイコロを投げて、きっと一を引き当てるだろうと思うとにやけてしまった。
“あたしが天使なわけないでしょ”
あーあ、僕は純白の天使を崇拝する死神だ。そんな照れ隠し、もう既にお見通しだというのに。隠せたと思ってしまうところも愛おしい。いやもしかすると、実はあんたが死神なのかもしれない。

金曜の朝。僕は少し大きめのバッグに荷物を詰め込み、そのまま泊まれるよう荷造りを始めた。心なしかいつもより念入りに髪を梳かす。鏡の前に立ってみて、普段は気にならない癖毛が気になって、わざわざ軽く濡らしてドライヤーで整えてみた。何をしているんだろう、もうよく知れた人に会うだけなのに。でも、友人として隣に並ぶのと、恋人として隣に並ぶのはわけが違うよな、と自分を納得させつつ嘲るように口元が歪んだ。悪い顔。
誰もいないリビングになんとなく行ってきますと言ってみた。もし天音さんと一緒に住んでいたら二人で家を出るから、行ってきますは言わないかもしれない。本当に、自分でも呆れるほど彼女のことしか考えられなくて参ってしまう。

学校に着いて教室に入ると窓際の席が空いていた。なんとなくそこに座ろうとして、ちょっと悩んでからその隣に座った。窓際は天使の為の“天使の椅子”だ。
天音さんは僕と学年が違ってひとつ上だけれど、同じ学科なので全く顔を合わせないわけではなかった。空きコマが被れば図書館で会えたし、教室が入れ違いになることもあった。入学した当初は会える頻度の少なさを嘆いたけれど、会いたいからという理由で会えるようになれた今では、学校で会えるかどうかをゲームのように楽しめてしまう。
そういえば一昨日天音さんとすれ違うときにほんの少し話をしたら、後から名前も知らぬ男に話しかけられた。どうやら天音さんは密かに存在もしない票を集めているらしく、それなりに名の知れた人間だったらしい。要は、あの先輩とあんなに仲良く話せるなんて何者?ということだ。だからはっきりと身の程知らずを分からせてやった。僕は天音さんの恋人なのだと告げて、スマホの待ち受けにしている天音さんの写真まで見せつけてやると、次の日には周囲から恋人君と呼ばれるようになってしまった。まあ一種の虫除けだと思えば丁度良いか、とそのまま放置してある。

今日の授業が終わって図書館に向かう。天音さんが何時頃に来るか聞けば良かったな。僕と同じで昼前に終わるなら、一緒にお昼を食べられたのに。
猫背気味になりながら図書館に入って、ついでに何か一冊借りようと純文学の本棚の前に立った。この図書館は棚が低い。いや、僕の身長が高いせいでそう思うのだろう。頭が半分くらい本棚を超えてしまっている。猫背を保ったままぼんやりと本たちを眺めていると、隣にやってきた女の子が僕の服の袖を軽く引っ張った。
「やっぱり、音巴おとはだ」
「天音さん!なんだ、もう来てたんだね」
あんたになぞられた僕の高校の頃からのペンネーム。僕の下の名前どころか苗字すら、烏滸がましい気がして呼べないらしい。そんなことないのに。むしろそのペンネームで呼ばれるのが僕は申し訳なかった。高校の頃文芸部の先輩後輩だった僕ら、僕には当時恋人がいたのに天音さんを好きになってしまって、密かに“天音”から一文字くすねたペンネーム。そんなことも知らず笑顔で口にされると、人並み以下かもしれぬ良心が軋む。
「今日は一限だけだったの。待つ間にと選んだ本を読み終わったから二冊目を読もうと思って。そしたら、本棚より上に頭があったから、君かなと期待して見に来た」
彼女は小声で語りながら本棚の一番上を指差す。天音さんは背が低くて上の段は届かないのだ。一番上は太宰治が並ぶ。天音さんは太宰治が好きだ。気が付けば毎週読んでいる気がする。もうほぼ網羅しただろうに、取ってとせがまれた“女生徒”は、高校の頃からずっと読んでいた。何回目になるのだろう。
「これ好きだよね。もう買えばいいのに」
天音さんは頑なに本を買わない。好きな本をノートにリストアップしているのは知っているが、一緒に本屋に行っても買っているところを殆ど見なかった。
「一冊買うと全部買いたくなるでしょ。それに、宝の持ち腐れになるのが嫌なの。家にあると読まなくなりそうで怖くて」
手の届くところにあるとかえって手に取らない、というのはなんとなく分かる気がした。だから僕は天音さんのことを手に取ろうと必死なんだな。
「でも、夜中に急に読みたくなったりしないの?」
「ピンポイントで“女生徒”が読みたいって思うことはないなあ。何か文字を貪りたいときはあるけれども」
フィルムに守られた表紙ですらすっかり変色した“女生徒”を本棚から引き抜く。段々と人が少なくなっていく館内。お昼頃なので今度は食堂やテラスが混むだろう。天音さんに本を手渡しながら尋ねる。
「そういうとき困らないの」
天音さんは“女生徒”を抱えて貸出カウンターへ向かった。保留にされた返答。すっかり人の少なくなった館内で、カウンターから少し離れた場所で待っていた。僕の横を通り過ぎようとした女の子二人が僕に気付いて恋人君だと言ったのが分かった。僕はその子らの顔も名前も知らないのに、どうして相手には知られているのだろうと可笑しくも思う。
ああ天音さんは後ろ姿も綺麗だなあ。窓から薄く死神が覗いていたとしても、きっとあの天使の前では無力だ。あんたの血液も僕のそれと同じように生臭く、錆びて茶色になっていくはずだって、その事実が愛おしい。僕がいないと生きられなくなればいいのにと心底思うよ。依存なんてしないほうがいいと世間一般的には言うし、あなたがいなきゃダメではなくて、自分一人でも成り立つところにあなたがいるともっと幸せにできることが理想的な幸せだということも分かっているけれども、それでも、僕はあんたの仰せのままに、あんたが望むように付き従う。求められるだけ応じる。だから与えたい量と求めてもらえる量が釣り合わないことを酷く危惧した。求めてもらえるうちに沢山沢山与えて、僕がいないと生きられなくなってくれればいつまでも与え続けられるのに。とことん甘やかして、あんたがもう僕でしか満たされないようにしたい。
「音巴?ぼんやりしてどうしたの」
彼女に顔を覗き込まれていた。なんでもないよと濁して、僕らは本棚の間を縫うように歩く。いつもの天使の椅子に天音さんが座る。僕はその向かいに座って彼女にもう一度尋ねた。
「夜中に文字を貪りたいとき・・・・・・・・・、家に本がないと困らないの?」
そんな話だったかと天音さんは笑い、真面目な顔になってこっちを真っ直ぐに見た。
「困らないよ?君の詩を読むから」
そんな顔で言われてしまっては、ああそうだ高校文芸部時代からずっと原稿用紙のコピーをあんたに渡していたんだなと体内で反芻するしかできなかった。あんたが欲しがるから。求められるのが嬉しくてつい、今でも渡してしまう。別にそれはいいのだが、自分の書いたものが全て天音さんの手元にあって夜な夜な読まれていると思うと恥ずかしかった。居た堪れない。初めて書いたものなんか、もう見ていられないし捨ててくれてもいいのに。
「ねえあんたそれ無自覚でやってる?」
にやにや笑いながら天音さんは僕の手に指を絡め、なにが?なんて戯けた。
「もう恋人なんだから躊躇いなく言えるなあ、音巴だけが特別だってこと」
からかうように言われてしまっては反撃したくて、僕は彼女の髪に触れる。ほんの少し動揺したような、泳ぐ目をじっと見つめ、優しく。
「そうだね天音さん。もう恋人なんだから躊躇いなく、僕を柚貴ゆずきって下の名前で呼んでくれていいんだよ」
鈍い音がしてはっと目を見開くと、天音さんが思いきり机に突っ伏していた。ちらりと見えた耳が真っ赤だ。相変わらずピアスはない。僕だけの天使、いや、本当は僕だけのでなくとも構わない。僕の前でいるのが1番かわいければなんでも。
「無理……呼べない……」
「じゃあ苗字でもいいよ?ずっとあんたに名前を呼ばれないのは悲しいなあ」
何してるんだろう、僕ら。
仕方ないと思う。ずっと、ずっと相思相愛ながら友人をやっていたんだから、仕方ない。

高校一年のとき天音さんを好きになった。いつの間にか惚れてた、なんて片付けてしまいたいけれどあれは多分一目惚れだったと思う。彼女の書く文章、創る世界に。そしてまるで鏡を覗いたような目と、僕を見抜いて投影したような立ち姿。僕らはよく似ていて、彼女に言わせれば「音巴は昔のあたしにそっくり」らしい。真面目に同じ神様に作られたなんて考えてしまうほどには。
あんたに桜の話をされたときは揺らいだ。この世界、僕以外にお花見で眺めるような桜を綺麗だと思えない人間がいるなんて、もう唯一無二だなんて自嘲してしまうこともできない。イルミネーションの話だってそう、捻くれてるよなあ、落ちている桜のほうが好きだとか、イルミネーションは綺麗じゃないとか、横断歩道の黒いところだけ歩いてしまうとか。今までなら同意されれば疑っていただろうに、あんたの目を見たら信じてしまった。天音さんは僕。もう少し素直になれた僕。天音さんを愛することは、自分を愛するよう善処することでもあった。
同時に天音さんは僕を再び創作の世界に連れ込んだ。中学生で封印した小説家になる夢。その傷をあんたは無自覚に、素手でこじ開けたんだ。まだ熟しすぎた柘榴みたいな状態の傷を。あんたにはまだ話せていないし、僕はもう小説ではなく詩を書きたいけれども、あんたに出会わなければそもそも二度と感情と言葉を絡めることに手を染める気がなかった。天音さんの書き上げる世界に見惚れて、うっかり足を滑らせた。僕と似ている、似ているのに、明らかに何かが違った。骨と内臓の位置をひっくり返されるほどの衝撃。この先もしもあんたと離れ離れになったとして、僕はあんたを一生忘れないだろう。勿論意地でも離さないつもりだが。

お昼を食べ終えてそのまま学校を出た。身長差や体型差も相まって食べる量に差がある僕ら、先に食べ終えた天音さんはいつも好きなようにずっと喋っている。唐突にうどんと蕎麦ならうどんが好きとか、ラーメンは圧倒的豚骨派だとか、力説しているのも微笑ましくて何気にあの時間が好きだ。そして顔見知りの人間が通りかかった途端外面そとづらの天音さんになってしまうのも好きだった。本当にこの人は僕の前でしか素でいられないのだと思うと嬉しくなる。僕としか分かり合えないままでいてほしい。
学校がある通りにショッピングモールがあって、天音さんが吸い込まれるように入口に寄っていった。そしてこっちまでまた駆け寄ってきて、僕の服の袖を軽く引っ張る。
「ちょっと寄ってもいい?」
「いい?というか、もう寄る気だっただろ、あんた」
わざとらしく笑うあんたの手は小さくて、白くて、指は細かった。揺れた髪と頼りない靴の音。確かに僕らがここに存在している。
モール内に入った僕らは一言も交わさなかったが、どこへ行くのかきっと分かっていた。多分同じ学校だろう人間がちらほらいて、天音さんは少し仮面を被りつつずっと僕の手を握っている。エスカレーターで二階に上がってふらふらと彼女に連れて行かれた先は勿論本屋だ。
「音巴の好きな本、教えて」
もう何回目だろう。高校生のときから二人で本屋に行くと必ずこうだ。いくらでも好きな本は尽きないが、彼女はほとんど本を買わないのに。
「じゃあ、今日は、これにしようかな」
そう言って一冊選んだのを天音さんに差し出す。彼女はそれを手に取って目を見開いた。
「これ好きなの?」
「好きだね。少し前に見つけたんだけどーー」
「あたしも好きなの、これ」
お互い、似ているとは思っていた。だけれども、見てきた世界が違うから最初から同じ本を好きだと言うことは今までなかった。僕が好きと言ったものを天音さんも好きになる。天音さんが好きと言ったものを僕も好きになる。そればかりだったのに。
「この本買おうかな」
その一冊の小説を抱きしめてはにかんだあんたが急に遠のいて見えて、慌ててあんたに触れる。白い手。
「自分で買うの、五冊目かな。これもずっと図書館で借りてたの」
「買っちゃおうよ。僕も持ってるよ」
彼女の手で丁度タイトルが隠されて見えなくなっている。彼女が財布を取り出すあいだ、持っててあげるよとそれを受け取った。文庫本サイズで従来のものより少し薄め。美しい表紙とは変わって、中身はどろどろとした恋愛小説だ。それでも、綺麗すぎるものより何倍も読みやすい。自分の臟とよく似た言葉たち。
「ありがとう、音巴。お金払ってくるね」
天音さんに本を手渡す直前、そういえばどんなタイトルだっけと思い出して表紙を見つめた。淡い色で描かれたイラストの上に細めの明朝体で。
ああ、そんな名前だったな。淡くて、脆くて、美しく、あの恋をどろどろとしたものだとは到底思っていないかのような。書いた人も僕らと同じだったんだろうか。

なんとなくふらふらとモール内を歩いて今日の夕飯について話した。あまりに食に無頓着なのか彼女の口からは飲みたい酒の名前しか出てこなかったので思わず、なにか作ってあげようか、と言ってしまって後悔した。今まで自分以外に食わせたこともないのに、彼女の笑顔に負けた。夕飯にハンバーグをリクエストされ、それくらいあんたも作れなきゃいつも何食べてるんだよ、と笑って。彼女をゆるく見下ろす身長で見る天音さんの耳。穴だらけなのが気になって仕方なかった。高校生のときはなかったはずだ。いつから空いていたのだろう?まだ、僕の知らないあんたがいる。
「天音さん。ちょっとそこの店に寄ろうか」
指したのはアクセサリーが店頭に並ぶ雑貨屋。そこまで値の張らないものばかりのカジュアルな店だ。
「どうして?」
戒め・・を僕で埋めるんだよ」
顔を背けた彼女がどんな顔をしているのか、もうきっと分かってしまう。お互い初めて味わうこの感情に、身体が適応しきれていない。
天音さんの戒め、どんな理由や経緯があってその言葉を選んだのか僕は知らない。だけれども、戒めと呼んでしまう気持ちはなんとなく分かる気がした。そんなあんたを僕は好きでいる。あんたが次に耳朶に爪を立てたとき、そこに僕がいることを感じられるように。その痛みを僕にも半分、味わわせてもらえるように。
店に並ぶキラキラを見ていて唐突に不安になった。背伸びしすぎただろうか。恋人にピアスを買ってやるなど、僕には似合わなかったかもしれない。恐る恐る天音さんを見ると、僕の不安など眼中にない様子でピアスを眺めていた。
「ねえ音巴、あたしに似合うのってどんなもの?」
「正直どれでもかわいいけどな……青色とか?」
彼女の瞳は真っ黒だが、向こうに薄く青が見えている。たぶん本当は青くもなんともなくて、ただ真っ黒なはずだ。僕が忘れられないだけ。
「確かに青色好きだよ。じゃあ、こういうのとか」
遠慮がちに指されたそれは小さめのピアスだった。ネイビーに近い色味のシンプルなもの。飾りひとつない、ただ埋めるだけの。
それも似合うと思った。でも、彼女が欲しているのはそれじゃない気がした。さっきまで彼女が見ていたのはそれじゃなかったのだ。
「こっちは?」
「でも……それは、そもそも青じゃないよ」
「青にしろなんて言ってないから、好きなものを選んでいいんだよ。このシルバー、似合うと思うけど」
大きめのシルバーのピアス。シンプルだけれど主張は強く、一見天音さんの雰囲気とはかけ離れているようにも思えた。
「でも、あたしには、ちょっと派手じゃない?」
「あれ、欲しくなかった?ずっとこれを見ていた気がしたんだけど」
そう言った途端天音さんが僕に軽く抱きついてきた。ふわりと長い髪が空気を含んで、淡くいつかの夏が来る。
「よくわかったね……流石、君だなあ」
複数の戒めを埋めるため他にもいくつかピアスを選んだ。その中には青色のものもあったが、どれもごつくてピリピリとした雰囲気ものものだ。普段天音さんが纏っているものたちはどれも可愛らしく綺麗なものだったので驚いたが、本当はこのピアスみたいになりたかったのかもしれない。なんて、まさか。こんなにも自由でふらふらと生きている彼女が?硬めの黒髪が僕を縛るように絡みつく。まあいいや、結局どれを選んだって天音さんに似合ってしまうから。
「ねえ音巴はピアス空けないの」
細い指が僕の服の袖を引っ張った。その袖が左腕なことに気付いて咄嗟にその指を引き離す。
「空けてほしい?お揃いで着けたいんでしょう?」
からかうように尋ねると天音さんは顔を背け、僕の問いには答えず「空けるときはあたしが空けるからね」と呟いた。さっきから口元が緩んで仕方ないのはあんたも同じなんだろうか。
「分かったよ、ほら、僕が払うから」
奪うようにして彼女の手から会計前のピアスを取った。あたしのだからあたしが払うと言って聞かない天音さんを無視して会計を済ませ、その場で戒めを塞いであげる。髪を耳にかけると複数のピアスが光を反射して強く光った。初めて彼女と目を合わせたときのようだ。目の奥に薄く雪がちらつく。
「……買ってくれてありがとう。これ以上戒めを増やさないように頑張るよ」
「増えたらまた僕が塞いであげるから大丈夫だよ」
無言で僕の手を引いて歩き出す天音さん。怒らせたかなと思ったがピアスが輝く耳が真っ赤なので良しとした。店からずっと離れたところでやっと僕に向き直った彼女は「最近君の言動が甘すぎてずるい」と言って口を尖らせる。甘くなったのはあんたのほうだ、そうやって今まで以上に子どもみたいに甘えてきて、折角綺麗に積み上げた僕の心の中のなにかが呆気なく崩れてしまいそうなのに。どうしてここまで僕を乱せてしまうんだろう。
「ずるくないよ」
「ずるいよ」
「その、僕の服の袖を柔く掴むのやめてくれませんか・・・・・・、かわいい」
天音さんが両手で顔を覆って俯くのを見ていて、この幸せなまま瞬殺されたいと思った。彼女がこの手の届くところにいるうちに、ともに永遠になってしまいたい。
「そろそろ夕飯の材料を買いに行きませんか・・・・・・
「なんで敬語なの」
どう言い表せば良いのだろうか、花が咲いたように、もしくは光が差したように。天音さんがぱっと顔を上げて笑い出す。
「なんでかな、言いたくなっちゃった」
やっぱりまだ少し烏滸がましい気がする。ただでさえ遠い位置にいたひとで、そう簡単に隣で手を取っていいものだろうか。まだ足元の不安定な石橋で僕らは動けずにいる。

食料品売り場に下りて、天音さんは真っ先に酒が並ぶ棚に行こうとした。酒が好きなのか、それとも食に興味がないのか。彼女は二、三歩先で振り向いて、またこっちに来て僕と手を繋いだ。
「音巴の手大きいねえ」
「身長だって、僕のほうが大きいからね、当たり前」
身体だけ無駄に大人になると心の空っぽさが目立つ。決して酷く子どもではないと思っていたいが、そう思うこと自体が子どもなのだと言われればそんな気もした。天音さんは素敵だ、その小さな身体にいっぱいの心を抱えているから。どうしても僕の目には自分の隙間ばかり映ってしまう。
「ねえ、君はどうしてあたしが好きなの」
いつの間にか俯いてしまっていたことに顔を上げて初めて気付いた。見慣れた食料品売り場の端っこで、同じく見慣れたはずの天音さんが知らない人のように感じられる。そこだけ切り取られたように。猫のようにつり上がった彼女の目が弱々しく下がる眉で緩和されて、儚く消えてしまいそうになっていた。
「どうしてかな。理由が要るかい?」
「無いならいいの。何が飲みたい?音巴の好きなやつは……」
あんたこそどうしてそんなことを聞いたの。言おうとしたが彼女が足早に目の前の棚にビール缶を見つけに行ってしまって飲み込んだ。ざらりと喉の奥に嫌な感覚。知らないうちに吐いた砂で天音さんのことまで汚していないことを祈った。ああ、これが地獄か。
「僕、ハンバーグの材料見つけてくるから酒選んでおいてくれる?」
そう言って立ち去ろうとすると天音さんが僕の進路を塞いだ。
「あたしも行く。はいこれ」
そこにあったカゴに四本ビール缶をそれはもう無造作に入れ、彼女はカゴを僕に押し付けて横に並んだ。重たくってとても持てない、と悪戯っぽく笑う仕草でからかわれていることを知る。かわいいので流されてあげる。いつだって彼女の望むようにことを運んでやって、ずっと調子に乗ったままでいてほしい。汚いものを何も見なくていい上のほうで、天音さんが落ちないようにしているのが僕の役目。ずっと僕にしか見せない顔で笑っていてほしいんだ。

サークルの飲み会なんかで一緒に飲むことはあったが、二人きりで、ましてや彼女の家でなんて初めてだった。連れて来てもらったのはお世辞にも綺麗とは言えないアパート。見かけがこんなだから家賃が安いんだと笑い、天音さんは僕の前を歩く。
「あたしね、どうしてもソファーが欲しかったから大学入学祝いを奮発して買っちゃったんだ。小さいものだけど。あたしの家……実家っていうのかな。そこにはソファーがなくて」
階段を上りきって三階の端っこ、五号室で彼女は立ち止まった。鍵を取り出して僕のほうを振り返る。
「でも部屋が狭いからソファーに占領されちゃってるの」
「良いじゃない、ソファー。くつろげるね」
扉が開けられて今更緊張してきた。朝まで一緒に、つまりここで一晩。天音さんのことだからきっとこの誘いさえ勇気を出してくれたのだろう。踏み躙らぬようにしなければ。
淡い青色のカーテンがかかっているのを見てやっと実感がわいた。例の小さいソファーは本当に部屋の真ん中にあり、この空間を狭く見せている。キッチンがむき出しになっているので恐らくワンルーム。ベッド周辺の小物なども青に近い色味で統一されており、限られた中でインテリアコーディネートを楽しんでいるらしいことが見てとれた。
缶を冷やす為彼女は冷蔵庫を開けた。ハンバーグの材料も一旦入れておこうねと僕から一式を取り上げてしまう。
冷蔵庫の扉が閉められたとき、そこにマグネットで固定された一枚のメモを見つけた。ただの数字の羅列だ。気にも留めず視線を外しかけたが、末端の並びにはっとして思わず天音さんの腕を掴む。
「なんで僕の電話番号貼ってるの……」
理由も分からないまま、恥ずかしさと嬉しさが混じって情けなく笑ってしまった。彼女の小さくて癖のある字で書かれた見慣れた番号。彼女は一瞬きょとんとして、すぐに照れたようにはにかんだ。
「もしスマホを失くしても、君に電話ができるようにだよ」
天音さんがこんなに綺麗に笑うのが、本当に・・・僕の前でだけだったのならいいのに。肺の奥で燻った言葉の破片たちがざらりと僕を蝕んでいく。あんたが僕を愛していてくれるなら、僕は何者だって演じてみせるよ。お道化は昔から上手だから。
彼女のキッチンは生活感が殆どなく、特にコンロまわりは使われた形跡が皆無だった。食に関しては本当に無頓着らしく、冷蔵庫には僕らが買ってきたもの以外にケチャップなどの調味料、卵、ボトルに入った水、レタス、冷凍された食パン、冷凍食品……ただでさえ狭い庫内がまるでがらんどうに見える。ファミリーパックのチョコレートが二つ、袋ごと冷蔵庫の一番上の棚を占領していて、どちらとも開封されていた。小柄というか華奢というか、全体的にこぢんまりした天音さん。今になって少し栄養面が心配になってしまう。

「天音さん。ハンバーグできたよ、食べよう」
盛り付けた大皿二枚をソファー前のローテーブルに運ぶ。初めは二人でキッチンに立っていたのに、あまりに彼女が危なっかしくて途中でやめた。包丁で指を切り落としかけるし、フライパンの縁で火傷したのに冷やそうとしない。結局僕が無理矢理にでも冷やしたものの、あの調子だと普段から怪我は放置なのだろう。自分大事にしなきゃ駄目だよ、と強めに言ったら不貞腐れてソファーの上で小さくなってしまった。僕も僕で盲目なもんで、それすらちょっとかわいく見えてきて、しょげた子犬がソファーで夕飯を待っているのを天音さんに重ねて一人で可笑しくなった。夕飯の完成を報告するとまだ少し不服そうな彼女と目が合う。
「料理もまともにできなくて……迷惑かけてごめんね」
「いいんだよ。迷惑でもなかった。それより、一緒に飲むの楽しみにしてたんでしょう?」
手を洗ったので彼女のところまで行ってその長い髪を撫でた。不安を含んだ瞳が僕に触れられる毎に柔らかくなっていく。天音さんは本当に僕のことが好きなのだと、そう実感する度自分の心に爪をたてたくなる。そんなことはつゆ知らず、僕の問いに頷いた彼女は立ち上がって僕を見上げた。
「ご飯ありがとう、音巴。お酒出すから待ってて!」
天音さんはぱたぱたと忙しなくキッチンに駆けていき、手を洗って、缶とグラスを持ってきてローテーブルに置いた。木製のローテーブルとプラスチックのグラスがお互いを叩き合ってかつんと鳴く。
「程々にするんだよ。四本も買って……あんたすぐ酔っ払うんだから」
彼女は僕の忠告に耳も貸さない。一つのグラスに缶一本分注ごうとしたので咄嗟に白い手首を掴んで止め、文句を言う彼女を横目に一本を二つのグラスに分けた。無理矢理に乾杯させて、飲まないの?と笑うと文句言いたげな天音さんも渋々グラスを呷る。黙ったまま僕の作ったハンバーグを口にして、途端に笑顔になった。分かりやすいくらいに素直だ。
「美味しい……」
「なに、美味しくないと思っていたような感動ぶりだね」
少々言い方に棘があったかと思ったが言及されなかった。ここ数日ずっと飢えていたかのように口いっぱいに頬張る彼女を見ていて、誰かに作ってやるのも悪くないかなんて思う。自分でも一口食べてみて、いつものほうが美味しいなとひっそり苦笑した。自覚のないまま緊張していたのだろうか。食べられないことはないものの、絶対もっと美味しくできたのに。

酔い潰れる前にと天音さんを浴室に追いやった。なんというか、生活そのものに無頓着な彼女は最後まで風呂に入りたくないとぼやいていて、皿洗いを口実にキッチンに留まろうとしていたが半ば強引に追いやった。皿を割ったりして怪我でもされたら大変だからだ。
遠くから水音が聞こえてくる。それを掻き消すようにこっちでも水を出して手短に皿を洗った。
ふと顔を上げるとベッドの横に小さめの棚があり、大きめの白いファイルが収納されていた。背表紙に書かれた黒い文字は少し距離のあるここからでも読み取れる。音巴、と、小さくて癖のある字で記されていた。どうやら僕が今まで書いた詩の原稿のコピーらしい。冷蔵庫に貼られた僕の電話番号といい、僕専用のファイルといい、全く自惚れてしまうほどに好かれていて笑ってしまう。
ひとの部屋を物色する趣味はないので、ソファーに軽く腰かけてぼんやりと宙を眺めた。ひっそりと置かれたドレッサーの引き出しが開けっ放しになっている。一度視界に入ってからは気になって仕方がなくてそれに歩み寄り引き出しを閉めようとした、その拍子に中が見えて息が止まりそうになった。そこでは複数個のピアッサーが礼儀正しく並べられてこちらを見ていたのだ。通常ピアッサーは一度きりの使用で使えなくなる。少なくとも五個は用意してあるということは、あの天音さんの耳の状態からまた五箇所以上穴が増えるということになる。一体どうしてそこまで自戒に励まなければならないのだろう。本当は天音さんもまだ仮面を被っていて、血みどろの臟を抱えて息ができなくなる夜があって、もしそうだとするなら、その傷を舐めてやれるのはきっと僕しかいない。普通に生きるのも普通を演じるのももうやめた、中途半端に正常でいるより異常のレッテルを貼られたままのほうが楽だった。それでも皆様方の中で淀んだ酸素を喰らうために必死でお道化をする。誰かにばれて追放されることのないように。天音さんも同じだったならーー。
薄くドライヤーの音が聞こえてきて、僕は慌てて引き出しを閉めた。何事もなかったかのようにソファーに座ってスマホを取りだし、天音さんの写真を集めたフォルダを開く。大丈夫、こんなに綺麗なひとだ、僕とは違って。いや、でも、僕と同じだったなら幸せどころの話ではなくて、きっともう抜け出すことのできないほどに溺れていってしまう。臟を抱えていてほしいと思いながら、同時にこんな僕とは違って綺麗でいてほしいとも思った。
「音巴。なに見てるの?」
後ろから画面を覗かれて何度か瞬きをする。大丈夫、上手くやれる、僕は彼女の写真ばかりの画面を見せて、あんただよ、と言った。
「あー、図書館での写真もある!全然気付かなかった」
「シャッター音のしないアプリを使ってるもの」
また口が滑って、どんな顔をされるか怖くなった。ぎゅっと目を閉じて返事を待ったが、彼女はくすくす笑い出す。
「ちゃんと言ってくれたらかわいいポーズとったのに」
そうだ天音さんはこういうひとなのだ。僕を気持ち悪がったりしない。ぐちゃぐちゃの深夜ポエムすらうっとりした顔で読んでくれる。やっぱり音巴はあたしにそっくりだねと言いながら。僕が期待してしまうのも仕方がないのだ。

天音さんの後に借りた浴室は浴槽のないシャワールームだった。棚には多分効果よりもパッケージデザインで選んだだろうシャンプーなんかがピアッサーと同じく礼儀正しく並べられていて、これらを買ってきてきっちり並べた天音さんを想像して愛おしくなった。かと思えばドライヤーのコードは無造作に結んであって、几帳面なのかそうでないのか。
扉を開けるとベッドの上で膝を抱えて座る彼女がいた。ローテーブルに置かれたグラスと缶と原稿用紙。小説を書いていた途中で僕を待ちきれず飲んでしまったのだろう。
「先に飲んじゃったの〜?」
できるだけ明るく尋ねると天音さんは顔を上げて僕のペンネームを弱々しく呟いた。頬が赤い。泣いているのか瞳が揺れている。これはかなり酔いが回ったな、きっと。
「君を待ってるの寂しかったから飲んじゃった」
哀しく下を向く尻尾が見えるようだ。いつの間にあんたは僕の前でこんな顔をするようになったんだか。僕をからかって笑っていた天音先輩・・・・が、酒か睡魔か溶けてしまいそうな表情で、ふらりと立ち上がって僕に抱きついてくる。
「音巴……お母さんがあたしの小説壊しちゃった……」
まるで悪夢のように彼女はいつもその話を繰り返す。僕と天音さんが初めて一緒に過ごしたあの夏、完成間近だった小説を天音さんの母親がシュレッダーにかけた話だ。天音さんは酔っ払うと母親のことを思い出して泣く。これは何度か一緒に酒を飲んだので、付き合う前から分かっていた。
「大丈夫、ここにお母さんはいないよ」
「あたしの大事なもの、全部壊れちゃうの、君もいなくなったりしない?」
皆の前ではクールな先輩なのに、僕の前でだけこんなになってしまうのが最高にかわいい。泣き喚いて抱きついてきて、僕がいないと泣き止めない。もっとダメにして、僕がいないと生きていけなくしたい。ああ自分を気持ち悪いと思っても、沸騰したのに火を弱めてもらえないヤカンのように次から次に感情が零れる。
「いなくならないよ」
目を擦りながら天音さんは僕の腕を引っ張った。あんたの着ているオーバーサイズの長袖が段々と緩んで、真っ白な手首が見えた。
「ずっと一緒にいてね」
潤んだ目に一瞬狂気を覚えた。
きっとあんたは今、何も考えず発言しているんだろうな。だからそんな不注意を冒すんだ。地獄への爆弾を取りつけたあの日みたいにね。
「勿論。ところで天音さん、手首」
僕は彼女の左腕を掴んだ。本当は言ってはならないことで、自分もされたくないことだったのに、先に手が出た。瞬間彼女は物凄い勢いで腕を隠し、俯く。白い肌に無数の白っぽい直線。もう目立たないからきっと過去のものなのだろう。
リビングとも呼べない狭い部屋。天音さんが怯えたように後退り、けれども後ろには彼女が大学入学祝いを叩いて買った安物のソファーしかなかった。あんたもおんなじだったら、臟までおんなじだったら、そればっかりに気を取られて僕は自分の左腕の袖を捲る。ソファーに彼女を押し倒すようになりながら、まだ少し血の滲む傷痕を晒した。
「音巴……それって」
「ねえ、ペンネームで呼ばないでっていつも言ってる。僕は中江柚貴っていうんだけど?」
場を和らげようと冗談ぽく笑ってみせたが、天音さんはまるで聞こえていないようだった。僕の左腕にそっと触れて、血管をなぞっていく。
「……きれい」
天音さんが笑った。それは以前から変わらない、天使のように優しい顔。それよりもっと霞んで気味の悪い、すごく、すごくかわいいーー。
「あたしの腕と同じくらいだ、ねえひとつ傷をつけてもいい?」
酔っ払ってる、確実に酔っ払っていて、普段の天音さんは絶対そんなこと言わない、いやそれともこっちが本当?だとしたら願ったり叶ったりだけれど、あんたの天使の羽をへし折ったのは誰なんだ?僕なのかな。それだったら、口が滑った。
「つけて、あんたの名前を刻み付けたって構わないよ、痛みすらあんたの所為にして感じたい」
止められなかった。もっと近く、近くなりたい。あんたの中に入り込んで、その一部にでもなってしまいたい。気持ち悪い、自分が嫌になる。
天音さんがローテーブルに手を伸ばし、そこに置かれた原稿用紙の下からカッターナイフを取り出した。カチカチと刃を出していくのを見ていて我に返る。あんたの手を汚すわけにいかない。
「天音さん!あんた酔っ払ってるだけだろ、なあ」
取り上げようと手を伸ばし、ぎゅっと刃の部分を掴んだせいで僕の手から血が垂れた。ちょっと声を荒げすぎただろうか、彼女がまた泣き出す。
「酔ってないもん!それより音巴、手が」
「これくらい平気だから……あんたはもう寝なよ。明日も一緒にいるから。朝食も作るし掃除もするし」
必死で明日もここにいていい理由を探して思いつくまま並べた。それなのにあんたが縋るから、どうしたって這い上がれずに沈んでいく。
「ねぇ、カッター返して」
「ダメだよ。あんたは綺麗だからーー」
「綺麗じゃない!」
悲鳴に近い叫びを聞いて、僕は天音さんを抱きしめた。またいつかのように声を上げて泣く彼女は、やがて弱々しく呟いた。
「綺麗じゃないよ……あたしの左の袖、捲ってみてよ」
「いいの?」
「どうせ、君にはいつか言うつもりだったよ」
どうして。
こんなに好かれて、もしかすると僕は綺麗な顔の死神かなにかに騙されているのかもしれない。それならもういっそ死ぬまで騙されたままでいたい、あんたの願うままに踊っていたいよ。あんたの仰せのままに。そう決めていたけれど今はどうしても。
「ダメだよ天音さん、お願い、もう寝て」
苦し紛れの言い訳をするときと同じ感覚がした。喉のところで彼女を突き刺してしまうだろう言葉たちが代わりに僕を刺している。言わないんじゃなくて言えなかったんだ。認めてしまうのが怖いだけなんだ。どうか猶予が欲しいだけなんだよ。天使の足に鎖をつけて僕の心の中に閉じ込めてしまうことが、まだほんの少し怖いと思えてしまって情けない。
「分かった、寝るよ……」
あまりに子どものように僕にしがみついて離れないので、一緒に寝るの?と問うとその通りらしかった。促されるまま同じベッドに横になる。小さな体の天音さんとならシングルベッドに二人眠ることは困難ではなかった。ぐずぐずと泣いていた彼女も次第に眠ってしまい、僕は暗闇に目が慣れてきて、いつもと違う天井を見つめた。
思えば彼女は夏でも長袖の制服を着ていたっけ。海で話したときも長袖だった。そしてそれは僕も。お互いどんな過去かは語らなくとも、多分気付いている。孤独への異常な恐怖心、他人を信頼することに沢山の過程を要すること、お互いがお互いに異様に執着していること。そんなあんたを愛していられるのは僕しかいなくて、僕を愛してくれるのもあんたしかいない。あんたがどんな姿になっても、閉じ込めてしまっても、この残酷な世界に蝕まれてしまうよりずっと良いはずなんだ。

翌朝目を覚ますともう部屋は昨日の淀みを感じられないほどには片付けられていた。体を起こすと、向かいのソファーに腰かけて本を読んでいた天音さんが顔を上げて、目が合う。
「おはよう、音巴」
「おはよう。早起きだね」
しっかり束ねられた髪を見るに今起きたわけではなさそうだった。酒で昨夜の記憶が飛んでいればいいのにと願ったが、彼女は酔っても記憶が残るタイプなので望み薄である。
「なんだか目が覚めちゃって。朝ご飯どうする?食べに行く?近くに行ってみたかったカフェがあって、モーニングもやっていて」
「カフェじゃ昨夜の続きは話せないよ?」
畳み掛けるように口を挟むと彼女は顔を歪ませて笑った。それは今まで見たことのない、苦しそうで、でも嬉しそうで、息ができないほど切なくなるような笑顔。それが瀬戸際に立ち尽くした故の表情ならもう、あんたを再び・・突き堕としたほうが良いかもしれない。
「もう、いいかな、隠さなくても。君は知ってもきっと、嫌ったり離れたりしないんでしょう?」
あんたが欲しい答えは分かっていた。僕らが朝と認めない限り、越えられない夜はここに沈澱している。
「勿論。僕は天音さんが好きだからね」
またさっきの顔をして、僕の天使は読んでいた本をローテーブルに置いた。そしてゆっくりと自身の左の袖を捲る。見えてしまった白っぽい直線の他に、肘に近付くにつれて赤っぽい直線が増えていく。それはもう、その真っ白な腕が真っ赤に見えてしまうほどに。僕の腕と同じ、下手したら僕より傷が多いかもしれない。まだ不安気にこっちを見ている天音さんに笑いかける。
「あんたもおんなじだったんだね」
「そうだよ、こんな腕して何食わぬ顔で君の横に立ってた、出会ったときからずっと。君が欲しかった。君を狂わせて堕としてしまいたかった!あたしは君が思うよりも、もっと狡くて汚くてーー」
泣き出しそうに震える声と手を掬うように、僕は声に砂糖を混ぜていく。ベッドから出て、天音さんと対極になるようにソファーの向かい、ローテーブルとベッドの間に座った。
「それは僕の台詞なんだよ。盗らないでよ。汚れ役は僕に背負わせて。あんたは僕の、綺麗な天使だからね」
ローテーブルに置かれた本は昨日本屋で新たに買われたものだった。この本の恋も僕らのように救いようがなくて、切ない結末だった。それでも主人公も作者もそれを不幸だとは思っていない。その証拠にタイトルは水彩紙。現実と本の中が違うのだって分かりきっていて、それでも僕はあんたとなら生きていける気がしたんだ。平穏も、もしかすると不穏も。ここが地獄でどんな結末を迎えたって、独りで天国に住まうよりマシだったから。
僕の言葉にしがみつくように天音さんは僕の左手に触れた。また泣き出した彼女の瞳の奥は今日もやっぱり青くて、それはずっと空や海の色だと思っていたけれど、きっと涙の色なんだ。今までに流した涙の。だからどうか僕のために生きて、僕は涙の代わりに血液を流してしまうような人間だから、僕の代わりに泣いて。そうやってあんたと生きていきたい。どんな不幸だって二人でなら怖くないなんて夢物語みたいなことを思ってしまったんだ。
天音さんの手に自分の手を重ねて、泣き続ける彼女を見ていた。このまま僕ら、束の間に取り残されてしまえばいいのに。いずれあんたの瞳が薄く紫色になるまでは。

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