【小説】切れかけ電球逃避行
貴方はいつだってそういうことを言う。頼り方も愛され方も慰められ方も知らないあたしを、何度だって抱きしめて同じことを言う。
「僕が愛してあげるから、まだ死なないでよ」
と。
あたしは別に自分がこの世で一番不幸なんだなんて言ってるわけではないんだ。ただ、苦しくてもう息も吸えないような夜に一人になっちまうのが耐えられないだけなんだ。あたしは何も知らなかったから。
「どうして向日葵と太陽は恋仲なのかな」
「どうしてって、そういうものなんだよ」
貴方は心底興味なさそうに吐き捨てる。貴方の隣に座って眺める夜の海は悍ましく、正反対ともいえる向日葵を思い描いた。
「永遠に触れられないのに。ましてや太陽なんて八方美人なのに、どうして向日葵は太陽を追いかけてばかりなんだろう」
返事がないはずだったが、貴方は珍しくあたしの手に触れた。
「そうだね、僕もそんな恋はしたくない」
「ところでその首はどうしたの」
街灯が薄く広がる下で貴方の首の皮膚がでこぼこしている。携帯のライトをつけて強引に首元を照らし、それに触れると貴方は呻いた。あたしの手を強く掴んで引き離される。隠すようなことなのだろうか。
「ロープをかけただけ。痕になったんだね」
胸元まで伸びた髪で君は首を隠してみせた。貴方の髪は途中から傷んだ金色。もう長らく美容院に行かずに伸ばしっぱなしの髪。無造作におでこの上で分けられた前髪が月光でたまにきらきら輝く。
「だけ?何の意味もないのね?」
「ないよ」
乾いた唇で弾き出された言葉の先端はこれまた無造作にぶちぶちと千切られていて、あたしの心に引っかかる。
「あたし、いつになったら死ねるのかな。こんな日々はいつ終わってくれるんだろう」
「終わらせなきゃ、終わらないんだよ」
いつになくはっきりとした声で貴方は言った。
「でもまだ死なないでよ。愛してあげるから」
波の音がするね、と呟いてもとうとう返事がなくなり、眠ってしまった貴方を身体の左側に感じながらあたしも目を瞑った。眠れやしないのはわかっていたが。
愛してもらっている。誰からも必要とされないと悲観的になるたび貴方はあたしを抱きしめたし、あたしだって貴方に縋った。愛されている実感も薄いまま、少しずつ貴方との時間が長くなっていく。
愛。愛していると言葉をもらうことが愛なのだろうか。それともこうして隣にいてくれることが愛なのか。無知なあたしには何もわからない、ただ、貴方がここにいること。
貴方と出会ったのは半年前、冬。この地域にしては珍しく膝くらいまで雪が積もった日、あたしはひとり外に出た。静かな深夜だった。郊外の交差点は車通りもなく、ただ規則的に信号が変わっていく。交差点の真ん中に立ってしばらく信号が瞬きするのを見ていて、やがてあたしはとうとうそこに寝転んでいた。
今思うとちょっとおかしかったのかもしれない。夢だったのではとも思ったが、夢ならば翌朝目を覚ました刹那飛び込んできた知らないひとーー貴方の説明がつかないのだ。
コートのポケットにアパートの鍵だけ突っ込んで、あたしは眠りこけていたらしい。偶然貴方に介抱され、寝起きの脳みそは愚かなことに全部喋ってしまった。つらい、苦しい、と吐き出した他に、どうして花火は綺麗なのかな、なんて、夢の中で見たかもしれない花火のことを話した。それで貴方はぽつりと言ったのだ、愛してあげるから死なないでなんて嘘みたいなことを。
やっと眠れたと思ったらもう空が明るくなり始めていた。まつげとまつげの隙間から朝日を眺めていると貴方の声がする。
「君さ、よく懲りずに僕に関わるよね」
どうしてそんなことを言うのと尋ねようとしたが、なんとなく貴方がそれを拒絶しているようで寝ているふりを続けた。
「毎回毎回どうして、どうして、って、飽きもしないんだから。そんなにこの世界に興味があるかい、そうかい。君は良い発明王になれそうだよ」
それが皮肉と気付くまで数分を要した。
髪を撫でられている。髪に神経が通っていないのを心底恨んだ。貴方の手の感触も知らないのだ。やがて貴方があたしの肩を軽く揺すったとき、気が付いて目を開ける。
「ああ、やっと起きたね。帰ろう、もうだいぶ日が昇ってしまった」
そう言って貴方はあたしに手を差し伸べた。夜明け、早朝を通り越して清々しい朝があたしたちを急かす。光は苦手だ。豆電球の切れかけくらいがちょうどいい。
その日の夕方五時頃、あたしはすっかり貴方のことを忘れて考え込んでいた。誰かがあたしを監視しているとか、誰かがあたしを操っているとか、貴方といないあたしはとっても馬鹿みたいなことで泣く。もしあのとき何気なく受け取った言葉が実は刃物だったら、なんて思い浮かべればそいつは今までもずっとここに刺さっていたかのように痛みだしてしまう。
そういえば季節はいつしか夏になっていた。家賃の安い古いアパートのくせに、隣は賑やかで幸せそうな家族が住んでいる。
ふと、ベランダに立っていた。夜は上も下も知らないで、ただ全身であたしを飲み込もうとするのだ。
ーーなにかが追いかけてくる!
そう思ったら居ても立っても居られず、飛んだ。視界の端で真っ赤なミニトマトがちらつく。隣の家のものだ。やけに鮮明に飛び込んでくる。実が一つ、二つ、まだ緑色のものがあった。
息もできなくなりそうで怖かった。衝撃と痛みにぼんやりと貴方の顔が浮かんでしまう。あたしが死んだら、貴方はきっと悲しむのだろう。
「二階から飛び降りる奴がいるかよ」
軽い入院で退屈していると貴方がやってきた。あたしが二階に住んでいると知った貴方は目を逸らしてずっと遠くを見つめる。
「しかもこんな明るいうちに。案の定誰かに通報されたし、君って本当に無知だな。それで本気で死のうと思っていたの」
「思っていたよ。でも、貴方が悲しむかな、とも思った」
貴方は意外そうな顔をして、それから歯を見せないで、でも口角はしっかり上げて、口全体をのっぺりと引き伸ばすようににんまりと笑った。たとえるなら、作戦成功、とでも言いたげな顔だ。それが愛と呼んでも良いものなのか、まだわからないまま。
「まだ死なないでって、言ってるでしょう。僕が愛してあげるから」
「でも、どうしても、生きていられない気がしちゃったのよ」
真っ白なシーツに少し濃い白の染みがぽたりぽたりと作られていく。貴方の前でそうしまったことが恥ずかしく、瞬きを繰り返して雫を逃がそうとした。
布団の中で見えないように両手をぎゅっと強張らせる。自分の爪が自分の手のひらに食い込んで痛くて、あたしの人生も自身の首を自身の手で絞めているような気になってしまうのだ。
「それじゃあ、一緒に死ぬかい」
それがどういう表情なのか、あたしには説明できそうもない。寂しさなのか諦めなのか、愛おしさなのか、よくわからない顔で貴方はあたしの髪を撫でている。発された言葉の真意を汲み取れず、聞き返そうにも聞き返せない。一度で理解しなければいけない言葉だったかもしれない。
貴方の髪も指もまつげもいつもと変わらない、じっと半透明に陰る瞳を見つめていると貴方は笑ってくれた。今度はずっと温かくて綺麗な顔で。
「廃校になってすぐの中学校を見つけたんだ。どうだい、一緒に飛び降りてくれるかい」
「あたしでいいの?」
「君が良い。この上なく愛しているから」
そのときやっと、ああこれは愛なんだと思えた。そしてきっとあたしも貴方を愛していて、だから縋ってしまうのだと思った。
「どれくらい愛してる?」
「どうかな。たとえば僕が詩人ーーいや、たとえば僕が歌手だったなら、声が枯れても歌い続けてあげるんだろう。君だけのために」
あたしだけのために。
ずっとここに存在していることを悔いていた。自分が自分で恐ろしくて仕方なかった。貴方のことを忘れてベランダから飛んだっていうのに、それでも貴方はあたしを愛している。
「あたしも愛してる!」
愛おしさから貴方に触れたのは初めてだった。貴方の耳、頬を撫でてその柔らかさを確かめる。ぬくもり。
半端に金色の髪、量の多いまつげ、細い目。自分の伸びた前髪の隙間から薄暗い貴方が顔を出している。少し目を見開いて、口元が緩んで、やがて同じようにあたしの耳から頬を撫でてくれる。これが愛と呼ばれないものだとしても、あたしはきっと貴方を愛しているのだ。きっと。
幸か不幸か手指の骨折で済んだので、手当てをしてもらってすぐ退院した。身内でもないのに貴方は迎えに来てくれて、君がいないと海も退屈だなんて言う。すっかり懐いてしまったあたしもなんとなく痛まないほうの手を繋いで、日が落ち始めた頃に約束の通り廃校舎に向かった。
「あたしがいなくて寂しかった?」
「寂しかったさ」
「死んじゃったかと、思った?」
「ああ、思った」
「あたしが死んだら泣く?」
「泣くかもね」
すごく居心地が良い。自然と歩幅がゆっくりになり、思わず貴方に抱きつこうとしたとき、廃校舎の庭に人がいるのが見えた。何をしているのか気になって話しかけようと駆け足になるあたしの腕を、貴方は慌てて引っ張る。
「黙ってて。そんな無闇矢鱈に寄っていったらだめだよ」
「どうして」
「僕たち死のうとしているんだよ。見つかったら、止められてしまうでしょう」
「じゃあ、飛ぶのはまた今度でもいいじゃない」
その言葉に触発されたように貴方はあたしの手を離して声を荒げる。髪が乱れて貴方の瞳を隠している。
「わかってない、君は何もーー。僕のことを愛しているなら今すぐにでも一緒に飛べるだろ!」
夏は貴方を支配して狂ったように叫び出す。後頭部を鈍器で殴られたみたいだ、上手くできなくなってあたしまで叫んでしまう。
「いつも貴方は愛してる、愛してるってーーあたしのことだけ大事になんてできないくせに!貴方は自分のことすら愛せていないのに!」
「何をーー」
「そうやって、ここから動けやしないんだ!最初から死ぬ気もないんだ!甲斐性無しなんだ!あたしのことなんて見てもくれないんだ!」
「ねえ、君、言ってること滅茶苦茶だよ。死ぬのを後回しにしようとしてるのは君じゃないか」
貴方の声が静かに落ちて、いつのまにかあたしは泣いてしまった。貴方に宛てた恨み言のはずが、自分に突き刺さってしまって痛い。
許せないよ。貴方も、あたしのことも。結局自分は死ねないだろうし、そもそも死ぬのも怖いし、ただ貴方と一緒にいたかっただけで。だけどそれがすごく不誠実な気がしてしまった。貴方といることが実はあたしを脅やかしてしまっているんじゃないか、なんて。
「ごめんなさい……」
貴方が好き。でも貴方とは死ねない。引き返すべきだ、頭ではしっかりわかっているのに貴方から誘われるのを待っている。あたしの手を取って屋上まで連れて行ってよ、フェンスを乗り越えて飛んでみせてよ。そしたらあたしは貴方の第一発見者になってやれる。
貴方は相変わらずあたしを抱きしめた。いつもするみたいに髪を撫でてくれる。
「大丈夫、そんな君でも僕が愛してあげるから」
そんな台詞が欲しいわけじゃないのに。ただ、あたしに気付いてくれたのが嬉しかったの。貴方とは一夜限りでおさらばすれば良かったんだ。貴方がそうやって甘く誤魔化すたび、あたしはまた騙されていく。どうして?
埃に咽せながら屋上へ出た。空はまだ薄く下のほうが赤く、貴方はフェンスを背にこっちを向いた。貴方の傷んだ髪がきらきら輝くのが好きで、何度盗み見たことか。僕が先に越えるから、と歪んだ四角が並ぶ壁に手をかけて、かしゃん、かしゃん、と鳴らしながら貴方はゆっくりと向こう側に座った。
「ねえ、おいで。飛ぼうよ」
いつになく穏やかな顔で微笑まれてはあたしだって罪悪感を背負う。
「ごめんなさい、あたしは……死ねないよ」
貴方は目を見開いて首を傾げた。怖くなった?と問うその声に焦りが滲んでいる。
ただ目を合わせるだけが精一杯で貴方を見ていた。涙が溢れそうになって目元に力を入れた途端、泣き出したのは貴方のほうだった。つ、とあたしから見て右の目から一滴だけ頬に流れた涙。
「じゃあ、僕もまだ死なないでおくよ」
そう言ってまたこちら側へ戻ってこようとする貴方を、あたしはフェンス越しに思いきり押した。
日付が変わった頃のベランダ。どうやって家に帰ったか思い出せない。ただ貴方にずっと追いかけられている気がする。あんなに愛おしかったのに、光が消えてからは恐怖対象になってしまうのが悔しかった。
あたしが死んでももう泣いてくれる人はいない。それならいっそ一緒に飛べばよかっただろうか。でも、もしあたしだけ死ねなかったらと思うとそれも怖かった。甲斐性無しなのはあたしのほうだ。
あたしは本当に愛されていたのかな。貴方はいつも愛してあげると言ってくれたけど、あたしも貴方を愛していると思っていたけれど、どうにもお互いの愛は違うようで愛し合っている感覚は薄かった気がしてならない。
「たとえばあたしが歌手だったらーー」
貴方の言葉を思い出してそっくりに呟いてみる。
「ああ、貴方はーー僕が歌手だったなら、声が枯れても歌い続けてあげるんだろう……」
ねえ、嘘。枯れたらきっと痛くて歌えないよ。どこかのポエムから引用してきたような言葉しかくれずに何が愛だ。こんなになっちまうなら、あたしに気付いてくれなかったほうが、よかった。そんな綺麗すぎる言葉たちに振り回されて、貴方を泣かせてしまったんだもの。
逃げよう。飛ぼう。あたしはもう、本当に誰にも気付いてもらえない。このまま生きていたってここで死んだって、誰かの邪魔になってしまうならいないほうがいい。こういうとき止めてくれた貴方ももういないのだから。
どうして一緒に飛べなかったんだろう。下で貴方のぐちゃぐちゃになった顔を目に焼き付けたくなかったから?貴方の前で生き延びてしまうのが怖かったから?わからないけれど、一緒になるべきではなかった。これで良いはず、貴方はきっと来世で人を愛することが怖くなって、あたし以外の誰にも愛してあげるなんて言わないよ。
「僕が愛してあげるよ」
貴方の一人称をなぞって貴方の気持ちを理解しようとした。思えば愛してあげるなんて上から目線で、仕方なく手を差し伸べてやったような言い方なのに気付きもしなかったのだ。
「ねえ、どうして貴方はあんなに綺麗だったの?」
ベランダから繋がる夜はあたしを傍観している。
「どうして貴方のこと今になってちょっとだけ、嫌いなんて思ってしまうの?」
隣のミニトマトは一つ実が落ちて潰れていた。あたしは空と現実の境目に立って、優しく飛ぶ。
「今更知ってどうしようもないけど、教えて」
黒髪の少女が発見されたのは、それから約六時間後のことだった。
タイトル : 暮 愛嗤
以下、「切れかけ電球逃避行」歌詞
向日葵が太陽に恋した理由を教えて
海が夕焼けを抱きしめた理由を教えて
首にかけたロープに意味が無いと教えて
今頃別にどうでもいいけど教えて
夢であってほしかった痛みを教えて
いつしか涙も涸れた理由を教えて
馬鹿にされたって笑ってるあの子を教えて
つまらない日々の終わりはいつか教えて
生きることに無頓着になって
逃げるようにベランダから飛んだの
瞬間視界を掠めたのはお隣に実ったミニトマト
楽しいことが分からなくなって
全部怖くて現実逃避したの
あなたが悲しむなって
飛んでから気付いたんだけど
あの夜が燃やされ爛れた理由を教えて
あなたの横顔が綺麗な理由を教えて
あの子がどうにも嫌いな理由を教えて
今更知ってどうしようもないけど教えて
花が眩くて鮮やかな理由を教えて
僕が願っても届かない今を教えて
都合の良い仲間達(おともだち)の理由を教えて
このまま本当に終わってしまうのか教えて
生きることにとんでもなく不器用で
もう無理だってベランダから飛んだの
瞬間脳内過ぎったのは熱烈に泣いたあの夜の華
苦しいことも分からなくなって
全部怖くて現実逃避したの
あなたは悲しむかな
笑い飛ばしてくれよ
わかってんだな こんなので死ねないこと
わかってんだな 本当は死ぬのも怖いこと
それでもどうやったら僕に気付いてくれるんだ?
「声が枯れても歌い続ける」なんて、嘘
枯れたら痛くて歌えないよ
綺麗事ばっかの毎日で
僕はあなたまで泣かせるのね
生きることに無頓着になって
逃げるようにベランダから飛んだの
瞬間視界を掠めたのはお隣に実ったミニトマト
楽しいことが分からなくなって
全部怖くて現実逃避したの
あなたが悲しむなって
飛んでから気付いたんだけど
生きていてもいなくなっていても
邪魔になってしまうのだろうな
冷淡な笑みを浮かべたのは
脳内で事切れたその灯火
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