【短編】うみのこ
わかっていた。あいつが海になりたいことは。だから本当は行かせたくなかったんだ。でもどうせなってしまうのなら、私の前でなってほしくて、私はあいつの手を今もまだ握っている。いつかの青に、飲み込まれてしまわぬ様に。海があいつを連れて行かぬ様に。私の我儘であいつを繋ぎ止められるとは思っていないけれど、それくらいにあいつが好きだった。
あいつの手は冷たくて、薄くて、今にも消えてしまいそうに思う。その腕には両親につけられた痣が、薄い紫に滲んでいる。私にできることは、あいつが海になるのを見届けるだけ。
「浅葱、」
あいつの名を口にする。いつだって私の声でなぞられたそれは不恰好で、本当は、きっと、あいつの両親が呼んでやるべきなんだろう。それでも私はあいつの名を呼ぶ。好きだから。
「好きだよ」
私の言葉に、あいつは少し笑う。
「知ってるよ。親友でしょ」
嗚呼。好きとはこんなにも容易くこの指をもすり抜けて、遠くへ行ってしまうものか。何もかもを諦めた様な乾いた作り笑いのあいつに、私の声なんて届くはずもないのだけど、せめて体温だけは伝えたい。私はあいつをぎゅっと抱きしめる。
電車に乗り込んで五分。こんなにあいつの近くに青があるのに、あいつは今まで行かなかったんだ。行けなかったのかもしれない。たった5分のために座席に座ったあいつは酷くやつれて見えた。
あいつは浅葱。浅葱とは僅かに緑を帯びた薄い青のことで、あいつの望む青に少し似ている気がする。私は萌葱で、あいつと名前が似ていなかったらきっとあれ以上仲良くなることもなかった。
小学四年生の夏だ。友達と遊んだ帰り、自転車の鍵を失くしたことに気付いた。一人でそれを探す以外に道を思い付かなかった馬鹿な私は、遊んでいた公園まで引き返して鍵を探していた。そこにやってきた痣だらけの少女が浅葱だ。もう空はすっかり暗くなっていて、その異質な少女は鞦韆にあまりに不釣り合いで、思わず尋ねた。
「ねぇ、一人?お母さんは?」
あいつが酷く痩せていたせいで歳下に見えたんだ。幼児に話しかけるようにゆっくり話しかける。やがて少女は泣いた。
たった一人の家族である母に蹴られ殴られたこと、食事もさせて貰えず痩せていること、家から追い出されここまで逃げてきたこと…それは劣悪な家庭環境を、まるで物語のようなそれを、あいつは身体全体で受け止めて泣いていた。
私はただあいつが泣くのを見ていて、皮肉にも綺麗だと思った。痩せた痣だらけの身体に薄いぼろぼろのワンピースを着た、薄いボサボサの髪の少女。それでもその瞳はまだ生きていて、時々月光を反射して艶々と輝くのだった。
私はあいつを連れて家に帰った。私の母は自転車の鍵如きでは殴ったりせず、見知らぬ少女を温かく歓迎し、私たちは一緒に風呂に入り夕食をとった。そして同じ布団で寝た。母が少女の母を通報し、あいつは保護されて、暫く会うことはなかった。
中学生になった同じ教室で、私はあいつを見つけてしまった。皮肉にもあいつの現状は変わるどころか酷くなるばかりで、痣も痩せ具合も変わらずだった為気付けた。そこで同い年だったということと、浅葱という名を知った。私が萌葱だと言うと、以前公園で知り合ったときの様にあいつは私に懐き、親友と呼ぶまでになった。
あいつは痣のほかに傷を飼っていた。カッターナイフで入れた無数の直線で、あいつは明らかに前より酷い環境にいた。家から閉め出されることは無くなったが、それは四六時中魔物と共にすることを意味した。公園に逃げることすら叶わず、やがて少女は初めて私に言った。死んでしまいたいと。
「海になりたい」
放課後の教室に二人取り残されたあの冬の日、あいつはカーテンを纏めながらそう言った。あいつの瞳はまだしぶとく生きていた。私はそんなあいつを二歩後ろから見ていた。近付くと心臓が煩いほどに跳ねることを、どこかで分かっていたからかもしれない。
「海に?どうして」
「小さい頃、溺れたの」
か細い声だった。けれども、ひたすらに美しい声だった。猫が鳴く様な。
「まだお父さんがいた頃。お母さんも優しかった頃。初めて海に連れて行って貰って、あの青にすごく惹かれた。気が付いたら走り出していて、あっという間に溺れたの。お父さんが助けてくれて無事ではあったけれど、私はあのときの青を忘れられない」
「浅葱は、海の子なのかもしれないね」
「うみのこ…」
言葉を噛み締めるように繰り返すあいつを、淋しげに眺めていた。あいつはいつか海に帰ってしまうんだって、そのときに唐突に悟った。大人になるまでとか、親が死ぬまでとか、多分浅葱は待っていたら死んでしまうから。だからきっとそれまでに、あいつの言う青に飲み込まれてしまうんだって。
高校受験する学年になって、浅葱はやたらと私に固執した。同じ学校に行くと言って、必死で親に反抗して、殴られ、流石に教師があいつの家へ押しかけるくらいになった。
「萌葱。私、死ぬかも」
卒業式の日の早朝、誰もいない教室であいつが言った。その弱々しい瞳を見たときに確信した。私はあいつが好きなんだって、何もあんなときに自覚しなくてもよかったのに、私はあいつが消えてしまうのがやっと耐えられなくて、少しでも寿命を延ばしたくて、思わず口走った。
「合格したら遠くまで行こう。浅葱が行きたいところに」
あえて海とは言わなかった。あいつはやがて泣き出した。透明な球体が薄く曇って、雨が流れる。柔らかい睫毛が木の葉の様にそれを促していた。あいつはこの世のものではない様だった。
「海がいい。海が見たい」
か細い声であいつは呟いた。私はあいつの手を強く握り、できるだけ無愛想な声を作る。あいつがこれ以上、嘘、私がこれ以上、あいつを好きにならない為に。
「行こうぜ」
それで、結局呆気なく高校合格してしまったんだよな。あいつが海になるのを、私はどんな顔で見ていたらいいんだろう?泣くかもしれない。そうしたら負担だろうか?あいつを守る様に座席の側に立ちながら静かに電車に揺られて、ふと思う。これが銀河鉄道の夜みたいに、一時でも幻想に連れ去ってくれたらいいのにと。白昼堂々と喧騒を抜け出して、時計の針はまだ十三時。
次はーー砂ヶ浜ーー。
「萌葱、降りよう」
「え?あ、ああ」
お出口はーー右側ですーー。
あいつの視線の先には、車窓の中に広がる青があった。あいつはあと何時間もすれば、この世界から。
「やめない?」
遅かった。気が付いたら口をついて溢れた。
「え?」
「引き返そうぜ。それで私と」
やめろ。
あいつにその場凌ぎの慰めも同情も何一つ効かないってことを、ずっと一緒にいて分かっているはずだったのに。
「萌葱。悪いけど私はもうあの家には帰らないよ。私が帰るのは青。私の居場所はきっと海だけだった」
浅葱が珍しく鋭い声で言い返す。乗客たちの目線が痛くて、私は浅葱の腕を掴んだ。ほぼ骨で、冷たくて、痣だらけのーー。
「萌葱、訂正する」
「ん?」
「私の居場所は、海と、萌葱だった。ありがとう」
浅葱は背伸びをして、私の顔を引き寄せる。その薄い唇を私の頬に押しつけて…短くキスをした。
瞬間、頬が火照るのが分かった。浅葱は前から何もかも知っていたかの様に意地悪く笑うと、言った。
「降りよう」
「うん……」
「私、萌葱のこと好きなの。親友でしょ?」
ずるいな。
私は弱く溜息をついた。
「砂。海。波。空……青。私の欲しかったもの」
浅葱は裸足で砂浜を歩く。少しでも長くここにいてほしくて、私は浅葱の手を握っている。命綱の様に、遠くへ行かない様に、強く。
「ねぇ萌葱。私、萌葱がいたから帰ってこられたの。萌葱がいなかったらきっと、私は私に殺されていたと思うから」
浅葱は傷だらけの腕をさすった。浅葱が浅葱を殺すーー言われなくてもわかる。学校の屋上か、首吊りか、なんでもいいが、黙って消えられなくてよかった。せめてもの救いだ。
「連れてきてくれてありがとう。出会ってくれてありがとう。私、帰るよ」
「浅葱!私、私は、浅葱のことがーーずっと好きだった。大切だっ…」
「知ってるよ。親友でしょ?」
浅葱は柔らかに笑った。その瞳は、人のいない海を反射して艶々と輝いている。一歩、また一歩、浅葱が青になっていく。白い波が浅葱の肌を着飾って、ボサボサの髪が美しく整っていく。やっぱり浅葱は、海の子なんだと。
不意に浅葱が私のほうに手を伸ばした。
「私、死神だったかもしれない」
浅葱が呟いたのと同時に、私は思いきり溺れた。生温い春の海に足元を掬われて、やっと息をした途端浅葱と目があった。
「萌葱。私と海になろう」
嗚呼、それはまるで私だったように、ずるずると纏わりついてくる。解れた青は柔らかくて、私は呼吸をするかわりにごぼごぼとそれを飲み込んだ。
ずっと、こうして居たかったんだ。公園で出会ったあの日、ここに一度取り込まれてから、私はそれだった。ずっと恋をしていたんだ。
浅葱は海だ。海は浅葱。私は萌葱。浅葱の中に取り残された、萌葱。私は浅葱になりたくてなりたくて、仕方なかったんだろう。きっと。
「浅葱、好きだよ。大好きだよ…」
水を飲まない様に言葉を絞り出した。浅葱は今までで一番瞳を輝かせながら、そして浅葱色に染まりながら、笑った。それは美しく、この世のものではない様に美しく、喩えなくとも海の様に。
「私も好きだよ。親友でしょ?」
誰もいない海は今日も、静かに波を作り出す。自然の法則に区切られたこの世界で、浅葱色に染まりながら。
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