【短編】日々に溺れる
俺なんかが文豪を夢見るものでないと、もうじゅうぶんに思い知らされている。その他人事のような錯覚に陥る黙劇を、もうどれくらい傍観しているのであろうか。雨漏りを顔に受けながら、原稿用紙を汚い言葉で埋めていく作業をしているのであった。
障子が破れた下等の部屋で寝転がっていた。どうしたものか。いつの間に日が暮れていたのを知り、よいしょと起き上がる。すっかり乾いた筆には墨がこびり付き、一見もう二度と使いものにならねえようであった。俺は明日にでも曲がり角の吉兵衛を訪ね、やっと文を読んでもらおうと決めた。
俺は売れねえ小説家である。駅で助けた優しい婦人達が声をかけてくださらなけりゃ、下宿に泊まることも叶わなかった。
ろくに金はねえのに散文を連ねては、酒と女に溺れるのだ。自分でもよくないことと自覚はしていたが、どうも凡庸には生きられねえもんだった。
裏の金持ちの家には明かりが灯るが、俺の部屋にはそんなものなどない。石油も買えないのでこんな寒い夜は早めに寝るに限る。こうしてまた一日を無駄にしちまうのだと、自棄に空虚な溜息を吐く。
「先生。お客さんだよ」
朝早く、吉兵衛に見せようと原稿用紙の束を掴んだところで声がかかった。襖を開ける婆さんに有難うと告げ表に出ると、田舎にいた頃近所でよく遊んだ少女がいた。いやもう立派な女性である。かくしてここにいるのか問うと、貴方様を慕って辿り着いたのですと言う。なるほどこの女はどこかおかしいらしい。俺のような奴を慕うなんて、きっとその眼球が霞んでいるのだろう。
女は小綺麗で美しく、銀座なんかで流行っているような背伸びした洋服を着ている。こうなれば自分の和装が恥じるべきもののように思えてきて、なんとも惨めであった。派手な傘のようなものを、雨天でもないのにくるくると動かしている。これにはなにか意味があるのだろうか。この傘の先から金でも飛び出さねえかなと、また酷く卑劣なことを思った。
「ねえあたしと来て下さらない?」
吹矢でぴたりと的に当てたような鋭さで、彼女は俺を見上げた。真っ赤な洋服は俺の日常には恐れ多いほど眩くて、何歩か退いてしまって壁に背をつける。
空はまだ白い霞に覆われて、今日の天気があまり良くはならないだろうと無知な俺に無理に教えている。もう何日も風呂に入ってねえことを今になって思い出した。汚いのは原稿用紙の上だけにしたい。
「ねえあなた、お願いだよう」
か細い声で俺の服に縋り付く彼女は、西洋人のように俺に接吻でもしそうであったから、慌ててわかったと首肯いた。その真っ赤な紅が服に付けば嫌に目立ちそうであった。
俺が首肯くと同時に彼女が俺の手を掴んで駆け出した。この女は俺より無知であるらしい。礼儀の欠片も無ければ、落ち着くことを知らないらしい。
「紹介するわ。あたしの幼馴染のヨシさん。身なりはこの通りだけど、あたし彼の文章が好きなの」
俺の名前にヨシは一切含まれないが、何食わぬ顔でうんと言った。三つほど角を曲がったとこの屋敷で、五人程の男女が原稿用紙を前に何かを書いていた。二人しかこちらを振り返る者はおらず、地味な着物の少女が幸、もう一人はなんと吉兵衛だった。吉兵衛は俺の古くからの友人で、俺と同じように小説家を志した奴だ。俺と違うのは、才能が用意されていたことだろうか。
「なんだ、お前か。ヨシって誰かと思った」
「あら、お知り合い?」
女は傘をまたくるくるとして言った。俺が友人だよと軽く返したとき、幸が俺に頭を下げた。
「お願いです。あなた様も小説を書いて下さらないかしら。わたしたち雑誌を書こうとしているのだけど、小説家がもう一人欲しくて。お礼は沢山お支払いするわ。どうかお願い。凡庸なもので構わないの」
凡庸とは一番難しくわからないものである。俺の文が評価されない理由はそれだと、吉兵衛に言われたことがあった。世の中が求める平凡さを、俺は欠いているのだと。それはきっと天才だと言われたように喜ぶべきところで、でも俺はきっとそこまで無知ではねえからそうしなかった。自分の文章が虫に食われた林檎より使い物にならないのは承知している。
凡庸にはなりませんがねと俺が食い下がったのに吉兵衛が声を重ねた。
「こいつは天才だぜ。目の付け所が違うんだ」
「まあ、ヨシさんすごい」
「もし、俺はヨシなんかじゃありませんよ。吉兵衛からもなんとか言わないか」
「吉田という名で小説を書いているじゃないか。幸や姫子は僕が吉田、吉田言うので覚えたんだろう」
そうだこの紅の女は姫子だったと、妙なところに納得するのに十秒は要した。長い間思い出すこともなかったので忘れていた。
「何故日頃俺なんかの話をしているんだい、吉兵衛。わかった、自分は才能があるからって俺を貶しているのだな」
そう言って笑うと吉兵衛は目を見開いて反論した。
「とんでもない、僕はヨシの小説が好きなんだよ。僕も含め数多くの人々が書く物とは違って、すごく退屈な話を書くから」
「それみろ、馬鹿にしているんじゃあないか」
「最後まで聞いてくれ。君は世間が求めているような非日常的な話を書かない。誰にでも起こりうる日常を切り取って書くだろう。それがいいんだ。誰にでもできることじゃない」
吉兵衛が声を張り上げたので、他の人らも顔を上げた。ばつの悪そうに縮こまりながらも、吉兵衛は熱弁をふるう。
「確かに世の中は、奇抜で意外性を求めている。日々を忘れさせてくれるような。でもそれは結局御伽噺にすぎない、言ってみればまやかしだ。そして読了後、より日々が退屈になるのか。僕たちの居場所は今しかないのに、だ。それが君の書くものはどうだい。そこら中に転がっているつまらない日常をいとも簡単に彩り、ささやかに装飾し、丁寧に映し出す。ほんの少しかもしれないが、毎日に目を向けられる小説。まるで日々に溺れるような」
「そうよ、ヨシさん。あたし、勝手ながらあなたの小説を読ませてもらったのだけど、あたし、とても好きだわ。心が穏やかになれる気がしたの」
「わたしもです。わたし、実はあまり文は得意ではなくて。でもあなたの文は好きです。とっても読み易くて」
姫子や幸に絶賛され、俺は恐る恐る持っていた原稿用紙の束を差し出した。タイトルは「木々」だ。ある意味至って凡庸かも知れない。
三人は俺から原稿用紙を奪うと、大きな声で音読を始めた。
「暑い昼のことであるーー猫も流石に日陰へ籠りーー私は氷を口に入れてーー」
「もし、やめてくれないか」
笑って三人を止め、少し改まって咳払いをする。吉兵衛がそれに気が付いて姫子と幸に俺を見るよう促した。三人の期待に満ちた目を見て、俺は口を開く。
「凡庸に書くのは遠慮するよ。小説の世界じゃあ非日常が多数でいわゆる普通なんだろう?だから俺は天才として書かねばなるまい」
「おい、急にその気になるのはよせよ」
吉兵衛が俺の肩を軽く叩いて笑った。
次に何を書くかはもう決めていた。仲間三人との取るに足らない駄弁である。心底下らないものができるだろうが、もう気にする必要もないだろう。人々の日常をもっと深くする為に、もっと日々に溺れてもらう為に、俺はまた筆をとる。
他人事のように黙劇を傍観していてもいい。それが俺の溺れた湖なのだから。
嗚呼、腹が減ったなあ。
宜しければ。