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【短編】白薔薇

爪。あのひとの爪。長くて綺麗に磨かれているでしょう、それはもう恋人がいるひとの爪なの。だから、あたし、それが叶わない恋だなんてのは初めから知っていたの。
悪く思わないで頂戴ね。あたしがあんたを一番に出来ないこと、ちゃんと話してあったでしょう。そうしてあんたもそれで、うん、それでもいいや、と、しっかり頷いてくださったでしょう。こうしてあたしがあのひとの話をしていたって、あんたはもう泣かないでしょう。だって、あたし、それでもちゃんとあんたが好きなんだもの。
嗚呼、そうやって全部を口に出して笑ってしまえるほど、哀しき少女であれば良かった。あたし、そういうところ、下手に空気を読んで黙っちゃって、だって、あんたが傷付くくらいならあたしが全てを背負ってぺしゃんこになってしまったほうが絶対に良い。よい、わるいの物差しを勝手に拵えて勝手に測定して、あたしはいつも自分が一番傷付く未来を選んでいる。別に自分のことが大嫌いとか、そういうことでは、無いのよ。ただあんたやあのひとが、美しくて、あたしだってダイヤの原石なはずなのに、そのへんの石ころみたいに下卑た女に見えてしまうだけ。
愛って難しくて、愛しているよと言われるのが愛なのか、言われなくとも今日は一段と瞳が綺麗ねとか些細な言葉を貰うのが愛なのか、あたしにはわかりそうもない。あのひとがあたしを可愛がってくれているのはわかっても、それはあたしの好きと同じではない。痛いね。

「でも、あたし、他に、好きなひとがいるの」
「どんな男だい」
「男のひとじゃないわ。女のひと」
そうしたらあんたの目線がすっと和らいで、おひさまが雲に隠れてしまったときのように、あたしは細く息を吸えた。
「女なら、いいや。それで、僕の恋人に、なってくれるんだね」
どうせ叶わないのはわかっていた。もうあたしも女として、男のひとと恋愛をしなければならないことも、わかってはいたのだ。許されるのを有難いと思いつつ、男ならだめで女なら良い、それが彼の物差しなのだと思うと納得はいかなかった。この恋が本気でないと言われたようでなんとも癪だ。
それでも、うん、と頷くと遮二無二キスされた。口付けと呼ぶにはあまりに乱暴で、怖くて、それでも愛していると抱かれるのがほんの少し嬉しくて、生きていることを証明されるようだった。

「僕たち、そろそろ結婚しないか」
それから半年、彼はそう口にした。
「結婚ですか?あたし、まだ、とても」
「結婚したら君はずっと家で遊んでくれれば良い。お金のことは心配いらないよ」
「まあ、平安みたいなことを言いますね」
彼は大学で平安の虜になってしまったと、昔に聞いた。だから、そう言ってからかうと喜んでもらえることも承知だ。
「嬉しいね。さあ、返事をくれるかな」
結婚なんて、あんたはあんたなりにあたしを愛していると、形にしたくて必死なのでしょう。わかっていたのにやっぱりあのひとの姿が散らついた。
「考える時間を、頂けますか?二週間」
「二週間。良いだろう、待っているよ」

帰宅してからあたしはあのひとのところに会いに行った。
「こんばんは。ユウコさんは、いますか」
すぐに戸の向こうからぱたぱたと足音がして彼女はあたしの名前を呼ぶ。あたしの名前をちゃんと呼んでくれるの、実はユウコさんだけかもしれない。
「ヒメコ!まあ、ヒメコじゃないの。どう?お嫁さんに、なれそうですか?」
からかうように言われてしまってはあたしもよしてくださいとしか言えず、手土産も無いことを謝りながら居間に通していただいた。ユウコさんはあたしにお茶を淹れてくださり、美味しい菓子があるのよ、と差し出してくる。有り難く受け取って頬張る。はしたない、はしたない。それでもユウコさんはあたしを可愛いと言ってくれるのを、知っているから。
「あら、ヒメコ。旦那さまの前ではそんな食べ方、してはだめですよ」
「旦那さまになるか、まだわからないのです。それにあたしは、ユウコさんのことが好きだから」
「もう、困った子ね」
ユウコさんは母の従姉妹だ。あたしの五つ年上。もうとっくに結婚して、この立派な家は旦那さまのものだ。それでもあたしは彼女が好きで、だって彼女は、
「私もヒメコが好きなのよ」
「やだわ、からかわないでください。あたしは、ヒメコは、ユウコさんをーー」
言いかけたとき、ユウコさんの旦那さまが顔を出した。
「ユウコ、お客さんかい?どれ、果物でも切っておやりなさい」
「そうするわ。ヒメコ、林檎は好きだったかしら」
「林檎ですか?好きですわ」
ユウコさんは台所で小さなナイフを取り出した。どうやら包丁なんかを持つと危ないと、旦那さまに決められたらしいのだ。それでもユウコさんは昔から不器用で、不安定に揺れる林檎に突き立てたナイフがより恐ろしい。たまらず、何か手伝いましょうかと言いかけたとき、ユウコさんが小さく悲鳴をあげた。
「まあ、まあ。ヒメコ、見て頂戴。私の指が切れてしまったわ」
「ぼんやりなさらないでください、大変なんだから、向こうで、手当なさって。ナイフは、あたしが、洗っておきます」
そう申し出るとユウコさんは首を振る。先端が薄く赤に染まった左の人差し指を抱えて、彼女は焦ったように言った。あたしの目を見ようともしなかった。
「嗚呼、もう、いいの、いいの。ナイフは捨てておいて。新しいのが、ありますからね」

あんたに会いたくなっちゃった。会って、あんたの腕の中で何もかも忘れていたい、抱きしめて会いたかったと言ってよ。寂しかったと、恋しかったと、そう言って柔らかく笑ってほしい。だけどあんた不器用だから、出来ないのでしょう。愛していると言うのが精一杯でしょう。こんなことなら、ひとりで、早々に、首でも吊ってしまったほうが幾分マシだった。
空白を埋めてもくれないで、何が愛だ。笑わせるな、あたしだってここに生きているのに。

「ねえ、あなた、このあいだの返事だけれど」
二週間経って駅前で待ち合わせた。まだ何も決めていなかった。ただあんたが、背中に花束を隠しているのが見えちゃって、それであたしは唸るように声を引っ張り出す。
「ええ、結婚するわ。これからもよろしくお願いします」
背中に隠しているのはあたしもだ。あんたが軽く笑って白薔薇たちを差し出すそのときに、あたしは生涯を背負う覚悟で腕を振り下ろす。右に握ったナイフはどこにも刺さらず、ただ彼の頬を掠めて僅かに赤が散った。からん、と地面に転がったナイフを彼は静かに拾う。
「驚いたな。僕を殺そうとしたのかい」
「ええ、そうかもしれないわ」
「それじゃあ、やっぱり赤い薔薇にしておけば良かったな」
「ええ、あたし、赤色のほうが好きよ」
頬から血を流しながら彼はあたしをじっと見ていた。今日は一段と瞳が濁っているじゃないか、そう言ってあたしに手を伸ばす。
「ヒメコ。平安では恋文に短歌を詠んでいたと、話したことがあったな」
「初耳ですわ」
「都合の良い耳だ」
彼に名前を呼ばれたのは随分久しかった。
「僕もそれに準えて、君に短歌をと考えていたんだ。二週間、しっかりと、何案も練って。だが気が変わった。君に相応しいのはそんな歌じゃない」
彼は拾ったナイフであたしを刺した。想像も容易かった。こうなること、知っていたからーーあたし、そのナイフを盗んだのよ。
ユウコさんがこのあいだ、捨てておいてと言ったナイフ。それで、あたし、魔がさして、こっそり鞄に入れてしまったの。愛しいひとの血液と思うだけで気を失いそうになって、指でなぞってからそっと口に含んでみたのよ。神様、あたし、今すぐ死んでも良いわ、なんて思ってた。
「嗚呼、その都合の良い耳でしっかり聞いておくんだ。君に捧げるのは」
地面に転がったあたしの上に、純白の薔薇が降り注ぐ。好きなひとと、好きだったひとの、血液を知ったその刃物で、あたしは嬉しく殺されるのだ。

一匙の謝罪も出来ず我儘を死んで叶える君は白薔薇

「あんたみたいな下卑た女、こっちから願い下げだ」
赤い薔薇たちの隙間から見えた空は、美しく俄日和であった。

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