映画『血ぃともだち』レビュー
【女子高生は電気羊の夢を見ない】
女子高生はリドリー・スコットも知らなければ、『ブレードランナー』も知らないらしい。もちろん『ブラックレイン』も。
考えてみれば『ブレードランナー』は1982年の公開から2022年で40年も経っている。30代だって知らないかもしれない作品のことを、知っているのが当然といった頭でいる方が本当はおかしいのに、映画の界隈に棲息している人たちはリドリー・スコットも『ブレードランナー』も知らないことの方がおかしいといった認識に凝り固まっている。
だから話がかみ合わない。そしてそのかみ合わなさが女子高生たちを撮る手に対象との距離をもたらし、遠巻きにして観察するような映像を作らせたのかもしれない。押井守監督による実写作品『血ぃともだち』のことだ。
これは異文化をめぐる葛藤の物語であり、吸血鬼という異文化と人間とがどう関わるかといったものだと『血ぃともだち』のことを話す押井監督は、そうした内容の一例としてリドリー・スコットの作品を若い出演者たちに示そうとしたらしい。なるほど振り返れば『ブレードランナー』は人間とアンドロイドであり、『ブラックレイン』は西洋と東洋という異文化の接触と対立が描かれる。
『エイリアン』からして人類と異星人との触れあいが描かれていた映画であったことを考えると、それがリドリー・スコットのある種の主題になっていると言える。だからこそ挙げて吸血鬼と人間との関わりを感じ取ってもらおうとしても、例を知らなければまったく意味が無い。すなわちそのことがリドリー・スコットを知って当然と思っている年寄りと、リドリー・スコットなんて聞いたこともない女子高生との文化的な対立を意味する。
どうしたら近づけるだろうか。それとも近づけないのだろうか。近寄れば喰われたり目玉をえぐられたりするかもしれない。刀で首を刎ねられるかもしれない。そんな緊張を抱きつつ撮った女子高生たちの日々は、「おまえたち年寄りには信じられないようなものを私は見てきた。そしておまえたちに見せる」といった作り手の意識を感じさせる、フレッシュさに溢れたものとなっている。
ストーリー自体には驚くべき要素はない。いや、これが初見ならぶっ飛ばしていると思われたかもしれないが、すでに押井守の脚本で作られたアニメシリーズ『ぶらどらぶ』で同様のストーリーが紡がれてしまっている。トランシルヴァニアから流れてきた吸血鬼の娘が、行き場に迷った挙げ句に献血が大好きな少女のところに厄介になり、血液マニアの保健教員に注目されつつさまざまな騒動を巻き起こす。その中から百合的な描写があり破天荒なスラップスティックがありといった具合に、さまざまなドラマが繰り出されては非日常へと見る人を引きずり込む。
そうした基本設定は『ぶらどらぶ』も『血ぃともだち』も変わらない。けれども『ぶらどらぶ』からは女子高生たちの日々への距離を置くような眼差しは感じられなかった。なぜか? アニメーションだからだ。そこに描かれるキャラクターは描き手の思いの範囲を超えることなく、というより描き手の思いがこもったものとして再現される。声をあてる声優も大人たちであって理解が及ばないアンドロイドでもエイリアンでも大阪人でもない。
これが『血ぃともだち』では全員が現役の少女たちだ。何を考えどう行動するかまるで分からない役者たちを、押井守監督は事前にワークショップを行うことで役にあてはめ、流れに沿った演技をさせようとした。だからこそ午後8時までという制約の中、往復5時間もかけてロケに通いながら乏しい時間の中で撮った映画が、しっかりと見られる演技によって固められたものとなった。会話も当意即妙なら感情もしっかりとこもった演技はそこに、献血部に集う女子高生たちが実在するかのように感じさせた。
その実在がかえってシチュエーションとのギャップを感じさせた。アニメだからこそ成り立つスラップスティックな展開も、実写ではコメディともギャグともとりづらい微温の中で見る人をふむふむと苦笑させる。現実にはいるはずのない奇矯な言動をする少女たちが、絵として描かれた非実在の絵でありキャラクターではなく、ある意味で現実を再現した実写の中に血肉をまとって素材する光景からくる驚きは、アニメからは得られないものだった。
だから見る意味がある上に、大人たちがはめようとする枠を飛び出すようにしてキラキラとした存在感を放ち、可愛らしさであったり憎々しさであったりといった情動をのぞかせる少女たちを、スクリーンを介して目の当たりにできるという点でも、大いに意味のある作品となっていた。
ヴァンパイアのマイを演じた牧野仁菜はなるほど圧倒的な美少女感を持って、非実在の女子高生の中にあってさらに非実在性の強さを漂わせていた。あの押井守監督がミューズとして撮ったとなれば、世界中からオファー殺到がありそうな役だと言えなくもないが、なぜかその後歌とダンスの方面に行って映画から遠ざかってしまっている。勿体ない。
そんなヴァンパイアの相方となって血を与え、家に住まわせおでんをいっしょに食べる渡部マキを演じた唐田えりかも、事態をポジティブに受け止め疑問も抱かずマイを受け容れ共に暮らす前向きな少女をはつらつと演じていた。世界の押井を前に臆さず自分を出し切ったとしたら、周囲を顧みない芯の強さを持った女優だと言えるだろう。実際にはつらつとしすぎた感もあるが。
ほかの献血部のメンバーに、保健教医の血祭血比呂を演じた松本圭未のまるで「うる星やつら」のサクラ先生のような口調であり立ち位置であり演技を絵ではなく実体として味わえる楽しさもある『血ぃともだち』。見ればきっと分かるだろう。女子高生という存在のどこまでも自由で自在な様を。それに共感できる者は己の若さを自認しよう。異質だと思う者は『ブレードランナー』が大好きで、そして朽ちていく存在だと自覚しよう。
『血ぃともだち』はその血がこれからを生きるに相応しいか、それとも過去に浸り続けるより外ないかをより分ける検査キットだ。(タニグチリウイチ)
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