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映画『東京2020オリンピック SIDE:A』レビュー

【何かに沿わせず何にも阿らない東京オリンピックの姿】

 あの夏、何か大きなものが傍らを通り過ぎていった。

 新聞を読まず、テレビも観ず、ネットからしか情報を得ない暮らしで、何だったのかがよく分からなかったそれは、ひとつひとつが自分はどこに向かっているのかを思って、歩き続けてきた道の集まりだった。

 河瀬直美監督による映画『東京2020オリンピック SIDE:A』を観て、分かった。

 柔道。女子バスケットボール。ソフトボール。スケートボード。サーフィン。陸上女子200メートル。陸上女子マラソン。空手の型。日本が金メダルに輝いたソフトボールや、銀メダルを獲得した女子バスケットボールについては、歓喜する選手たちの姿が捉えられていた。

 けれども、それらを自分のことのように嬉しがる観衆は映らなかった。何かの感動を抉りだし、改めて世の中にばらまこうとはしていなかった。何かに沿わせず、何にも阿らないそれぞれのオリンピックを淡々と描き出そうとしていた。

 女子バスケットボールはむしろ、カナダから参加した選手が生まれたばかりの子供も連れて来日し、母乳を与えながらプレイに臨んだ姿を見せる一方で、出産後に復帰したものの、開催延期で再び引退した日本の元選手を対比させることに、時間が割かれていた。

 自分がそうありたいと思ったからそう生きることの強さ、そういうものだからと認め身をなぞらえさせた優しさのどちらが正しいのではなく、そこに人それぞれの行き方があるのだと教えられた。

 8度目の出場となった体操女子で、8度目の跳馬に挑んだウズベキスタンの選手の変わっていく姿と、変わらない跳ぶことへと集中した表情を見せてくれた。手を振って競技会場を去って行く時の笑顔に、やり続けてきたことへの満足感が見えた。

 内戦のシリアをボートで脱出し、難民として競泳に出場した選手や、戦うなと言われたイランを出てモンゴルに帰化し、柔道男子に出場した選手の、その辿った軌跡だけを語って世に幾つもあり、そして今も生まれ続けている数奇へと関心を向けさせた。

 モンゴルへと帰化した選手にとって、ひとつの終着となった決勝の舞台で勝ったのは日本人選手。にも拘わらず映像はモンゴルの選手を映し続けて、その身分で立つことの理不尽と、そこに立てたことの幸福を感じさせた。

 東京オリンピックという場所に向かって歩いてきて、そしてどこかへと向かって歩いていった人たちの、その行く先がどこであっても構わない。勝利も敗北も棄権も参加もその人のものであり、それを抱えて歩んでいくのもその人なのだから。そう思わせてくれる映画を観てだから、外側にいる人は素直に良かったねと思えるのだ。

 成功すれば誰もが讃え、失敗すれば皆で励ますスケートボードの選手たちがいた。大波に挑んでサーフィンをする選手たちをオリンピックの舞台で観るために、何年も何十年も走り回ってきた男がいた。女子マラソンを走る妻を赤ん坊と共に応援し、棄権したと知って駆けつける夫がいた。空手の型で沖縄の選手が優勝したことに喜ぶ一方で、定型にはまって流派の特徴が薄れてしまうことを嘆く沖縄の人たちがいた。

 観客よりも内側にいる人たちの労には報い、側で支えてきた人たちの思いにも応えていた。けれどもそこまで。だからこそ美しく、けれども触れられない場所を通り過ぎていっただけのものだったという思いを、改めて強くさせられた。もっとも。

 それを個々の生き方として受け止めるのではなく、組織の役割としてこなした人々もまた、東京オリンピックには大勢いた。さらにその外側で、日常を生き続けてきた人々がさらに大勢存在した。そうした人々にとっての東京オリンピックを見せる『東京2020オリンピック SIDE:B』という映画にはまた、違った感想を抱くことになるだろう。

 嫌悪だろうか。虚無だろうか。恐れつつ観て浮かぶ思いを残してどこかへと向かい、同じような美と醜を振りまきながら続いていくオリンピックに、前よりも少しだけいろいろなことを思うようになることだけは、確かだ。(タニグチリウイチ)

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