映画『神在月のこども』レビュー
【走りたいから、走るのだ】
最高でも連続して走った距離が2000メートルに満たない身では、東京の本所吾妻橋あたりから島根県の出雲大社まで、自動車だと専用道を走って800キロ、鉄道ならサンライズ出雲の走行距離で950キロに及ぶ距離を、さあ走れと言われてもそんな距離を走れるものかと臆してしまうだろう。たとえ神様の力が使えて、あまり疲れないのだとしても、1日に走れる距離は200キロがせいぜいで、そんな毎日を5日間近く繰り返して何が得られるのかと考えた時、相当なものが得られなければ走ろうという気にはなれない。
『神在月のこども』という長編アニメーション映画で、主人公の葉山かんながそんな距離を走ろうと思ったのは、死んだ母親に会えると信じたからだった。神無月と呼ばれる旧暦の10月は、日本中の神様が出雲大社がある島根県に集まるという。出雲ではだから逆に神在月と呼ぶそうだが、八百万と言われる数の日本中の神様たちが一堂に会するのなら相当に賑やかだし、宴会だって連日連夜繰り広げられそうだ。
そんな宴席での「馳走」のための供物、つまりは「ご馳走」を運ぶ役割を、まだ少学6年生のかんなは与えられることになった。韋駄天、という神の末裔らしいかんなの母親が病気で亡くなって、宙に浮いていた神の座をかんなが引き継ぐことになったのがひとつの理由だが、彼女は進んでその役目を引き受けた訳ではない。出雲に行けば死んだ母親に会えるかもしれない。そう因幡の白ウサギに聞かされて、だったらと走り出したに過ぎない。
それでも、走る理由があるから走れていたが、神様の役割はそうした対価の代わりに行うものではない。逆にいうなら、母親に会えさえすればそれが偽りの幻想であっても、かんなにとっては満足できるものになる。何か目的を持っての行為、対価を求めての振る舞いは時として強さをもたらすが、場合に寄っては弱さも露呈する。『神在月のこども』が描くのはそんな、偽りやごまかしの感情をぬぐい去った時に現れる、自分自身の本当の思いの強さだ。
名誉のためでも金のためでも、セリヌンティウスのためでも走ってもちろん構わない。それが心底からの願いなら、存分に力となって疲れた脚を動かし、体を前へと進めるだろう。そして名誉を得て金をもらい、セリヌンティウスの命を救って走るのを止める。それだけのことだ。かんなも母親に会えたら走るのを止めてしまうかもしれない。そのことは責められない。誰かを思う気持ちは尊く、誰にも邪魔できるものではないのだから。
神のためにご馳走を運ぶ、韋駄天という神に与えられた役割を果たすかどうかといったことも関係ない。韋駄天として生まれ、育てられ、教えられて育った訳でもない普通の人間にそんな義務など関係ない。そう言ってしまえば物語は終わってしまうし、実際にいったん終わろうとした。そこでかんなは、こどもの頃にどうして走っていたのか。どうして走りたいと思ったのかを探求する。浮かんできたひとつの思いがかんなに、そして観る人に自分が「走り続ける」理由を思い出させる。
『神在月のこども』とは、そんな映画だ。
日本のアニメーション映画だからといって、圧倒的なビジュアルを誇る訳ではない。どちらかといえばこども向けに近いビジュアルで、クオリティでも同じように親を亡くした少女が立ち直る様を描いた『若おかみは小学生!』に届いているとはいえない。それでも、走り続ける少女は健気で応援したくなるし、ウサギは可愛いし韋駄天をライバル視する鬼は無邪気だ。留守を預かり馳走を渡す神様たちも、ウシだったりクマだったり龍だったりと様々な姿で登場して、日本の神話や信仰の多様さを感じさせてくれる。
そして日本の自然がいっぱいある風景も。そこを走り続けて人と出会い、神と知り合い、試されながらも乗り越えていく少女が、本当にやりたいことを見つける姿を感じさせてくれる映画なのだ。
幼い頃のかんなを新津ちせが演じていて、そこからそれほど成長したようには見えない小学6年生のかんなを蒔田彩珠演じていて、中身だけ中学生になってしまったような思いを一瞬だけ抱いたものの、話が進むにつれてだんだんと頑張る小学生の女の子らしくなっていくのが面白かった。もちろん、新津ちせは子役の域を超えて意識をもって役を演じて蒔田彩珠につなげていた。どちらも役に欠かせない声だった。
そんなかんなに付いて出雲へと向かう白ウサギの坂本真綾も、鬼の夜叉を演じた入野自由もともにプロの声優として役を演じきっていた。そして神谷明。大重鎮の声優が出雲の大国主として現れると場がしまり、空気が凛とする。ご老体でも剽軽でもない腹の底からの威厳を感じさせてくれる声を聞けるはずだ。意外なのは龍神役の高木渉か。どこか軽薄さをにじませた悪役が最近は板についた感じもあったが、神谷明に負けない威厳を感じさせてくれた。聞き所だ。
響くmiwaの歌声にも励まされて進む映画は出雲で終わるが、韋駄天の仕事は神無月であり神在月が繰り返される限り続くだろう。そこに果たしてかんなはどう対峙していくのか。お役目という使命感でも負けたくないという気持ちでもなく、ただ走りたい、走って遠くに行きたいという気持ちを前に出せるなら、たとえば50年後になっても走っているような気がする。
かんななら。(タニグチリウイチ)