映画『ゆるキャン△』レビュー
【山梨から富士を見たくなる】
名古屋が出てくる名古屋映画なので存在としてすこぶる正しい。同時に山梨映画でもあって、山梨で見る富士山の正しさを描いて静岡県民を刺激しているのではないかとも想像する。キャンプ場から見る元旦のダイヤモンドの美しさにかなう富士山はあるか? 静岡県民の意見を聞いてみたいところだ。
原作については漫画を数巻を読んだくらいでアニメもほとんど見ておらず、時々『ヤマノススメ』と混同してしまいそうなところもあったりするものの、今回の映画は映画として独立して楽しめるものになっている。
高校時代のキャンプ仲間たちが卒業をして大学も経てそれぞれの道を歩み始めてバラバラになってしまうかもしれなかったところを、キャンプ場作りという共同作業を通して永遠に続くかもしれない関係へと"再生"する物語として、普遍性を持って語りかけてくるところがある。
さて内容。名古屋には『CHEEK』とか『KELLY』といったタウン誌と呼ぶにはもう少し豪華な雑誌が幾つかあって、そこでお仕事して食べてける状況がある。そうした前提を元に見れば、志摩リンが名古屋の出版社に入社をして営業を経て編集者として仕事をしていても不思議はない。そうした設定が物語の現実味を支えているところがある。
名古屋市内ではなく一宮市から名古屋の丸の内にある出版社に通勤している志摩リンは、週末で仕事がない時にはバイクでツーリングに出かける日々を送っている。これが東京の大手出版社勤務にしてしまうと、忙しくて忙しくて自分の時間なんて持てず、物語ににあったように大垣千明が山梨県の観光推進機構に入って計画を立てた山間部の施設の再生に、各務原なでしこら同級生達といっしょになって取り組むなんてことはできなかっただろう。
東京のイベント会社を辞めて山梨に帰った大垣千明に東京近郊のモールにあるアウトドアショップで働いている各務原なでしこ、山梨の小学校に勤務している犬山あおい、そして神奈川あるペットサロンでトリマーとして働いている斉藤恵那らもそれぞれが自分のやりたいことを見つけて充実した毎日を送っている。忙しさに終われることもなく、趣味に生きる余裕を持って暮らしている感じを見るに付け、東京の大きな会社で仕事に邁進して数十年を経って振り返って、何も残っていない空虚感にとらわれることなんてないんだろうと感じさせられる。
あるいは、山梨という東京からまあ近く名古屋からだって行ける場所の自然がたっぷりとあってのんびりと暮らせるような雰囲気こそが今、求められているライフスタイルなのかもしれないと思わせてくれる。これが長野だともうちょっと過酷になりそうだし、千葉だとチバニアンになり群馬だとグンマーになってしまっただろう。山梨だからこそ出せる雰囲気。『スーパーカブ』のあのゆったりとした感じも、山梨だからこそ出せているリズムとテンポのような気がする。
大垣千明が山梨県庁とかけあって始めたキャンプ場設置計画が、途中まで順調にいっていたにも関わらず、ちょっとしたハプニングが起こってしまう展開は、社会人としての日々にもたらした新しい潤いを奪い、志摩リンや各務原なでしこに結構なダメージを与えている感じ。社会人となって数年が経つと、惰性で行こうかそれともこのあたりで変えてみようかといった迷いが生まれる。そこに与えられた新しい風だっただけに、途切れそうになって寂しさを覚えてしまったのだろう。そうした雰囲気が漂ってしんみりとさせられた。
でも、もだからこそそこで諦めないで突破していく道を考え出して自分たちでやり遂げたところに嬉しさを覚えた。自分らしく生き続けるのは現代だとなかなか大変だけれど、そこをしっかりと見つけて突き進んでいく気持ちをずっと持ち続けたいと思わされた。
キャンプ場で食べるご飯の美味しそうな感じも十分に伝わってくるストーリー。キャンプにも行きたくなったけれど、経験があるのはボーイスカウト流のハードなものだけなので、現代風のキャンプができるのかはちょっと不安。そのうちどこかにテントを持って行ってみるのが良いのかもしれない。
食べるのはお湯を沸かしてカップラーメンといった程度だろうけれど。(タニグチリウイチ)