何もしないとはなんなのか。
あけましておめでとうございます。今年もよろしく願い致します。この年末年始、私は「なんにもしない」ことに励んでおりました。真っ暗で寒い中を元朝参りしたりだとか、今年一年の意気込みを書き初めに託したりだとか、そういう意識の高い行動を一切せず、布団に潜ったり、お酒を飲んだり、サトウの切り餅を焼いたり。のそりのそり暮らそう。そう思ったのです。
ところが、正月そうそう、いきなり思い知らされましたよね。地震に、羽田空港の事故。「なーにがお正月だよ。それどこじゃねえ」という気分と化しまして、ただ、三が日まで会社はお休みなので、気分がどうあれ休まなくてはなりません。ですから、あくまでも当初どおり「何もせず過ごそう」という意識でいました。休みなのに休むのを頑張った。
ところが、やっぱり地震などの件が思ったより負担となったか、なんだかちょっと上手く休めなかったような感覚が残りました。まあ、「何もしない」ってことに関しては割と完璧にやっていたわけなんですが、それでも、過ごし方がどうにも下手くそだったような気がする。何もしないことを自分に許容するって、自分の住む環境だけじゃない、もっと広い環境が安寧としていなければ成就できない部分があると思いませんか。
あと思ったのが、「休日は何にもしないでのんびり過ごすぞ」と考え、計画どおり過ごせたとしても、その後の自分が満足するかどうかまでは想定できないんじゃないでしょうか。それに、「何もしないで過ごしたい」と思っていても、実際のところ、人は「何もしない」その行動を積極的にイメージしがちで、あろうことか、その「何もしない」ための行動に、やたら執着してしまったりするかもしれない。
何もしたくない。今日は昼からお酒でも飲もう。ところでそのお酒はビールか日本酒かワインか焼酎のどれにしようか。それによっては酒のつまみも変わるしなぁ、どうしよう。あ、めんどうだから家飲みじゃなく店で飲むか。とはいえ、どの店にすりゃいいか迷うなぁ。せや、せっかくだから友人を誘うか。で、昼酒に付き合ってくれそうっていうと、あいつか、それともこいつか。みたいに、「何もしない」ための内容が、どんどんつけ足されていくようなことって、割とありがちじゃないですかね。
なぜそうなるか。「何もしたくない」とはいえど、その実態は「いい感じに過ごしたい」という欲求でしょう。疲労した自分にいい感じの休息を与えたい。でも、いい感じってなんだろう。図書館で静かに過ごすことか。カフェにおいしいコーヒーを飲みにいくことか。海をぼんやりと眺めにいくことか。頭の中に理想の「何もしない」がポコポコ浮かぶ。何もしないって、本当はなんなのだろう。たぶん、それって一生わからないんじゃないか。「何もしていない」ような気分を、なにかしらの行動に託し続けるのが人間なんだと思います。
※はてなブログの方にも同内容が投稿されています。