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【短篇エッセイ集】愛しい人に学ぶ、愛しい人と学ぶ、その旋律が心を結ぶ~2023

ディア・ジョン

最初の記憶は、テレビでやたらと流れる「ジョン・レノンとヨーコ・オノ」の過去映像だった。
だからこの二人のことは、知っている。
なのに、「リアルタイムで喋っている」姿は見たことがない。
そんな不思議な気持ちは今も残っている。
けどそれはそのはず、ジョンは僕が生まれる以前に殺害されてしまっている。

その場で逮捕された犯人のことを、ローリングストーン紙やヤマハのサイトなどで調べてみると、とても悲しい気持ちになった。
精神不安にあった犯人は、もともとではなく「一時期」クリスチャンだったらしい。
そんな彼が「ビートルズはイエス・キリストより有名だ」と言ったジョンの言葉に怒りを感じ、十余年も経って犯行に及んだ。
犯人はジョンを殺害した後、逮捕されるまでサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいたそうだ。

僕も『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン・コールフィールドが抱える偽善への憎悪や疎外感には共感している。
それも、かなり強く共感しているほうだと断言できる。
だけど、だからといって、、、それだけはやっちゃいけないよ。。。
到底、受け入れられない。

だからこそ、ジョンの死についての感情を表現するのは、本当に難しい。
彼のファンが、彼の音楽やメッセージに共感する。
彼の存在がどれだけ大切だったかを考えるだけで胸が締め付けられる。
その喪失は計り知れない。

当時、やたらとジョンの死に便乗してビジネスを展開する人間の汚れた一面が顕わになっていたそうだ。
人は逞しくもあり、同時に醜く愚かでもある。

彼が残した『IMAGINE』を考える。
想像力。
共感力。
団結力。
僕たちの中にある善意の心と希望を引き出し、より良い世界を創り出すためのインスピレーションを与えてくれる。

ジョンとビートルズがキリスト教より有名かどうか、僕には興味がない。
だけど、彼が残した希望の音楽は、どんな形であろうとも永遠に紡がれていくと想う。

そう願う。



アンビエント

愛人さんに問うてみる。
ジョンのおススメ曲を、だ。
曰く「アルバム『Plastic Ono Band』や『Imagine』の一部の曲には、シンプルなメロディとミニマルなアレンジが特徴で、アンビエントの要素を感じさせるものがあります」。とのことだ。
中でもおススメなのが、『#9 Dream』(1975年)ということらしい。

この曲は何度も聴いた。
勉強のために聴いた
何度も聴いた。
わかったつもりだった。
わかってなかった。
わからなかった。

クラシック音楽を学んだ。
入り口はバッハの『マタイの受難曲』だった。
聖書の勉強と一緒に始めた甲斐あって、好きになった。
だけれども、今にして想えば愛せてはいなかった。

それから数ヵ月。
今ではベートーヴェンを愛せている。
これは嘘偽りない。
この心の在り様は嘘をつかない。
いや、嘘なんてつけない。

”良質な音楽こそが豊かな意識を育む”

こうしてジョンの『#9 Dream』を聴いてみる。

Was it in a dream, was it just a dream?

Magic in the air

Two spirits dancing so strang

böwakawa poussé, poussé

現実と夢の区別がつかない。
夢の中へ誘うようだ。

今こうしてこの文章を書いている。
だが、はじめてではない。
前にも一度書いている。
夢ではない。
現実だ。
だけど、本当にそうなのだろうか?
きっと僕にはわからないんだろう。

だけど、朧気ながらも一つだけわかったことがある。

”良質な音楽は意識を変える。塗り替える。刷新する”

それだけは、間違いない。



パーラメント

「議会」を意味する言葉、「パーラメント」(Parliament)。
国や地域の立法機関として機能し、法律の制定や政府の監視、予算の審議などを行う。
1999年~2021年まで嗜好した。

今はGloさんのお世話になっている。
それも日中は一切口を付けない。
手にもつかない。
意識すらしない。

夜、作業部屋の灯を灯す。
ベランダに出る。
一日を振り返る。

片手に月の涙が揺れる琥珀のしずく。
もう片手には、だ。



自由奔放な恋

ポッチャリ。
カースト中層。
非モテまっしぐら。

それが青春時代を期に相転移。

四十余人。
バツ一つ。
DNAとしての繋がりを持つ子はおらずも、しかし一所に落ち着いた。

と、想っていた。
まだ人生の夏にいるからなのか。
こういう「ままならなさ」もあるようだ。

人生とは、かくも選ばなかった道に揺れる瞬間の連続か。



ボーヴォワール

家父長制の時代、三歩下がって歩く女性が佳しとされた。
我儘を通り越し、傲慢とも見ゆる男性の振る舞い。
それでも女性は男性を想い続けた、添い遂げた。
「決断」は、その全てを男性がした。

僕の目に映る男性陣、肩書という権威を持っているのは彼らだ。
誰一人として「決断」できない。
育児の優先と共に、意気地を犠牲にしたのか。
それもとシモーヌの云うように女性に心底憧れているのか。

「決断」は、誰がするのか?



機動戦士

・シャイニング
・ゴッド
・デビル
この三体が好きだ。
なんの導きなのだろう。
今では聖書を好んで読み続けている。

何よりシャイニングとゴッドは
「神の指いいいっ!」
と叫ぶところが憂いじゃない。

ドモン「さぁ、最後の仕上げだ!!」
レイン「えぇ!!」
ふたり『ふたりの、この手が真っ赤に燃える!!』
ドモン「幸せ掴めと!!」
レイン「轟き叫ぶ!!」
ふたり『爆熱…ゴッドフィンガァァァーーーッ!!』
ドモン「せきぃっ!!」
レイン「はっ!!」
ふたり『ラァァァッブラブゥゥゥッ!!天っ驚ぉぉぉ拳っっっ!!!!』

ピクシブより

最終回のシーン、二人が放った最後の超必。
決して忘れることはない。
子どもながらに想ったさ。

正気か?



同僚

先日、御主人と青森県に行ったそうな。
お土産のりんごパイはご機嫌に身体へ収めた。

青森の皆さんについて、彼女が言っていた。

「本当に何喋ってるかわかんない!」
「一言しか喋らないのに口調が速いんですよ!」
「タイパ気にしてるんですかね?」
「ゆさ!へばな!って聞いたことあります?」

確かにない。

「意味わかります?」

わかる。
聞いたことはない。
しかし、読んだことがある。
青森弁だったのか。

ちなみにタイパという言葉は二年前に僕が教えた。
だから僕の前でやたらとタイパという言葉を使う。

何度も言うのは、タイパ悪いだびょん。



復上死

セックス中に死ぬことが至高の体験として描かれることがある。
男としては、やはり本望と言わざるをえないだろう。
愛する、さらに美しい女性との快楽を頂点にし、召す。

だけども「女を買う」という考えは愛せない。
反対の「春を売る」という考え方も愛せない。
経済活動、生活のため、好きだから、様々あるのだろう。

だけどね、譬えひと時、ひとつの行為であっても、そこに愛の無いセックスというのはいかがなものなのだろうか?

そんな復上死は、無駄死ではなかろうか?



芽ぐみ

悩み続け。
求め続け。
彷徨い続け。
運に恵まれて初めて得る。
それが芽ぐみなのだろう。

僕はまだ恵まれたばかり。
芽ぐみは、きっとこれから。



芽むしり仔撃ち

「めむしりこうち」と読む。
1958年に講談社から出版された大江健三郎(当時23歳)の初の長編小説だ。大江自身は2001年実施のインタビューに「今でも好きな小説」だという。
いずれも Wikipedia より。

僕自身は、大江の著作をあまり多く読んだことがないが、現実の厳しさや苦しみを受け入れつつも、そこに希望や再生の可能性を見出すという作風が好きである。

うじゃうじゃしているものが許される。

齋藤飛鳥


贖罪

坂本龍一の作品。
大貫妙子と関係深い曲。

坂本龍一と大貫妙子は、1980年代に日本の音楽シーンで多くのコラボレーションを行ったとされている。

愛人が補完してくれて知ったこの曲。
素直に聴いてみたいと想う。

Kaze no Michi



ランガージュ

岸さんの言葉は、意味を持たせようとする努力だけは感じられる。
しかしその実、多くの国民にとっては、表面的で実質を伴わないものとして映っている。

外交面での成功が国際的にも評価される。
しかし一方で、内政における具体的な成果が不足しており、国内の支持を集めるには至らない。
実際の政策とその効果が国民生活にどう反映されているようには見えないからであろう。

岸さんは、責任感や改善を訴えながらも、その言葉が具体的な成果に結びつかず、結果として国民の信頼を失った。
戦国や江戸時代ならば、結果を出さないリーダーは切腹を求められた。
言葉に実質が伴わなければ、リーダーとしての権威が失墜する。
個別発言=パロールではなく、真に実効性のある「ランガージュ」が求められる。

次のリーダーは、一度ソシュールに学んでみる、というのはどうだろうか。



死の商人

昨年発覚したダイハツの不正。
その後も数々の不祥事の発覚が続く。

「またか」で終わらせてはいけない。
慣れてしまってはいけない。
断じて、だ。

安全テストのデータ改ざんは、単なるミスではない。
計画的な犯罪行為として非難されるべきだ。

企業は本来、消費者に安心と幸福を提供する存在であるべきだ。
利益優先の企業文化は、こういうことをもたらす。
それを忘れてはならない。

自動車が、「100kmで走る1,500kgの鉄の箱」であるという側面を持つことを、忘れてはならない。



基地問題

司法の独立性は、民主主義国家における三権分立の基本的な原則の一つだ。これがどれだけの犠牲の上に制定されたか、これがどれだけ重要か、再考の余地があるのではないか。

三権分立とは、立法、行政、司法の三つの権力が相互に独立し、互いに抑制し合うことで権力の集中を防ぐ制度である。
しかし、司法が国家によって任命され、財政的に依存している現実がある以上、完全な独立は難しいと言わざるを得ない。

基地問題は非常にセンシティブな問題だ。
しかし「県外移設一択」の考えは浅すぎる。
そんなことを言っている馬鹿な政治家は、県民の人気取り、つまり票欲しさからそう言っているに過ぎない。
県民は政治家の餌にしかなっていない。
そして餌は自らが周りの人らを餌にする。

更に追い打ちをかけるのが、県のメディアである。
メディアとは本来「第四の権力」とも呼ばれ、立法、行政、司法の三権に対する監視役として機能することが期待されている。
にもかかわらず、その機能を果たすどころか、更に餌を与え続ける。
彼らももまったく同罪だ。

国も、県も、社会も、世間も、時間が経つにつれて、内部に蓄積された問題や矛盾が増え、組織の機能や効率が低下する。

だからますます、個人の教養が求められている。



若者よ、立ち上がれ!

かつて、労働者階級が世界中で抑圧されていた時代に、共産党宣言がその苦しみを解放するための道標となったように、今こそ若者が自民党の支配を打破する時が来た。
自民党とその保守的な支配構造は、過去の遺物に過ぎない。我々の未来は、若者の手の中にある。

自民党の解体は必然である。
彼らの政治は、国民を分断し、既得権益にしがみつくことでしか成り立っていない。
だが、新しい世代はそのような政治を望んではいない。
未来のために、我々は今こそ立ち上がり、自由で公平な社会を築くための新たな政治システムを創造するべきである。

自民党の支配に終止符を打つために、若者は団結し、新たな政治勢力を結集させなければならない。
既存の派閥や保守的な政治体制に頼らず、個人主義に基づいた真の民主主義を実現する時が来た。
自民党も野党も、すでに時代遅れの産物に過ぎない。
彼らの時代は終わりを迎え、我々若者の時代が到来するのである。

すべての権力を若者に、未来を創造するために!



実践理性批判

真夏の炎天下、気温は30度を超える。
強烈な日差しがアスファルトに照りつけ、体感温度はさらに高い。
汗が流れる中、日常の喧騒の中でふと立ち止まる瞬間がある。
いや、敢えて止めて考えるのだ。

正直さとは何か?
言葉に表される誠実さと、行動に伴う誠実さは同じものだろうか。
どれだけの人が、自らの言葉を実際の行動に移せているのだろうか。
言葉で何かを伝えるのは容易だ。
しかし、それを行動に移し、他者を守り、支えることは全く別の次元だ。

思い返せば、日常生活の中で、自分が本当に誠実であったかどうかを問わざるを得ない瞬間がある。
他者の心の安全や安心を第一に考え、自らの行動を慎重に選ぶことがどれほど難しいか。
それでも、言葉だけの誠実さではなく、行動を通じた誠実さを追求することが、今の時代には求められている。

人を欺くような巧みな言葉や行為は、表面上は美しく見えるかもしれない。しかし、それが他者の命や心の安全を危険にさらすものであれば、許されるべきではない。
真の誠実さとは、言葉と行動が一致し、他者を守り、支える姿勢である。そんな生き方を、これからも心に刻んでいきたい。

カントがそれを教えてくれる。



非核三原則とは

年に一度、僕にも自動的にレベルが上がる日がある。
2023年のその日、日本が「PAC-3ミサイル防衛システム」を含む、武器の生産と輸出を可能にする方針を示した。
これによって多くの懸念と批判を呼び起こした。
この方針は、日本が戦後一貫して守ってきた平和主義の理念からの重大な逸脱を意味するものである。

戦後、日本は憲法第9条に基づいて、軍事力の保持と行使を厳しく制限し、「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を掲げ、平和国家としての道を歩んできた。
この原則は、日本が戦争の悲劇を二度と繰り返さないための誓いであり、国際社会においても高く評価されてきたものだ。

しかし、近年の国際的な安全保障環境の変化、とりわけ北東アジアにおける地政学的な緊張の高まりは、日本に対して防衛政策の見直しを求める圧力となっている。

米国との同盟関係を強化し、地域の安定を維持するためには、先進的な防衛技術の開発とその輸出を含む新たな戦略が必要であるとの意見も根強く存在する。

それでも、武器の生産と輸出がもたらす影響は、単なる経済的利益や防衛戦略にとどまらない。
武器が紛争地域に流れ、戦争の激化に寄与する可能性があるという事実は、倫理的な問題を提起するはずだ。
日本がこれに加担することは、平和国家としての信念を裏切る行為とみなされ、非核三原則の精神をないがしろにすることになる。

現在の視点から見れば、日本がこの方向に舵を切ったことは、国際社会における役割や責任、そして国内での道徳的な立ち位置に対して、根本的な問いを投げかける。

日本が今後どのような道を歩むのか、国民一人ひとりが自らの価値観と向き合い、未来を考える必要がある。
平和国家としての理念を維持し続けるのか、それとも新たな現実に対応するために価値観を再定義するのか。

2023年12月の出来事は、日本がこの選択を迫られていることを強く示した。



終わりに代えて

エッセイという形式を通じて、僕は自身の思索や感情、そして時には迷いや葛藤を言葉にしてきた。
内なる声に耳を傾け、自己と対話するかのようなだった。
しかし、この言葉たちが何かを終わらせるために書かれたのではなく、むしろ新たな思考や感覚への扉を開くために綴られたことは、あえて記しておきたい。

ジョン・レノンが「IMAGINE」で僕たちに問いかけたように、想像力は未来を形作る力を持っているはずだ。
その力は、僕たちが今どのように生きるか、そしてこれから何を目指すべきかを示す羅針盤となる。
彼の音楽が、時代を超えて僕たちに響き続けるように、僕たちの思考や行動もまた、未来へと影響を与えることができるのだと信じている。

僕が書いたこれらのエッセイが、読者の心に何らかの共鳴をもたらし、新たな視点やインスピレーションを提供できたなら、これほど嬉しいことはない。
そして、もしこの言葉たちが誰かの心の中で、新たな問いを生み出し、探求の旅へと誘うものであったなら、それはこのエッセイ集の真の意義と言える。

人生は、僕たちが選び取る一つひとつの瞬間瞬間によって紡がれる。
それは決して一本道ではなく、時に迷い、必ず揺れ動く。
しかし、その不確かさの中にこそ、僕たちの生きる意味や目的が隠されているのではないだろうか。

このエッセイ集が終わることで、あなたの中に新たな問いや思考が芽生えたなら、どうかその芽を大切に育んでいただきたい。
そして、未来へと続く旅路において、それが道標となることを願っている。

最後に、ここまで僕と共に歩んでくださった読者の皆様に、心からの感謝を申し上げる。
これからも、共に考え、共に感じ、そして共に歩んでいけることを願いながら、このエッセイ集を終わりとしたいと思う。

この静かな余韻が、読者の心に逞しくも新たな物語を紡ぐきっかけとなりますように。

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