大人の読書感想文⑩/カミュ「異邦人」

これまでの生活で、今ほど「自宅滞在時間」が長かった事は、有りませんでした。せっかくの「おうち時間」なんで、超難作に挑んでみようと思い、また「大人の読書感想文」を書きます。今回は、以前「大人の読書感想文⑧」で取りあげたF.カフカ「変身」と並び、不条理文学の金字塔の双璧を成す、カミュの「異邦人」を読んでみます。
まず、作品の大まかな「あらすじ」から書くと、主人公・ムルソーは、母親の葬式の翌日、女友達たちと、海水浴へ行き、その後、或る経緯からアラビア人を殺害してしまい、裁判にかけられるが、その裁判は、何故か、ムルソーが、アラビア人を殺害した際の状況等や「事件そのもの」より、ムルソーが、母の葬式で、十分に悲しんでいるように見えなかったり、その翌日海水浴をしたり、女性と映画へ行った事等のムルソーのプライベートでの行動を難詰され、公正とは思えない議論で、裁判は進み、また、当のムルソーも、殺害理由を「太陽が眩しかったせい」と主張し、死刑宣告を受ける。という不思議な内容です。


一般的に「難解な作品」とされる当作ですが、率直な感想は、難解なんて、生易しい代物でなく、難解の十乗以上というくらい、訳が分からない作品でした。

そもそも、タイトルの「異邦人」とは、誰の事だろう?ムルソーが殺してしまったのは、アラビア人だから、紛れもなく「異邦人」だけど、その殺害理由を「太陽のせい」とするムルソーも、また、他者と、違った価値観を有す「倫理的異邦人」と捉える事もできる。また、作者のカミュもフランス人だから、いわゆる「ヨーロッパ列強」帝国主義の代表国の一員だ。つまり屈強な軍艦で海を渡り、中南米/アフリカ・アジアを制圧し植民地とし、現地から、持ち帰った品や現地人(奴隷)を売買する恐ろしき異邦人だったのだ。もし、カミュが自分達のそんな文化特性を否定的に捉えてこの物語を書いたなら、彼自身も思想的異邦人(列強の中の異端児)だったかもしれない。この作品は、カミュのそんな列強(=帝国主義)の倫理的矛盾を批判的に描いたものかもしれない。 何故なら、カミュは、自文化に対し、否定的な見解を持っていた節がうかがえる描写が、作品中に有るからです。

この物語を読み解く為のキーパーソン的な主要な登場人物に「司祭様」が居て、ムルソーは拘置中に、何度も司祭の訪問を拒否するが、
物語の終盤に司祭の訪問を受け、言葉を交わす印象的なシーンが有る。司祭様は穏やかにムルソーを諌め諭し、あなたのために祈りましょう。と語るが、一方、ムルソーは「祈りなどするな、消えてなくならなければ、焼き殺すぞ」と罵倒し、掴みかかるという衝撃的なシーンが有る。

クリスチャンの地で、このような描写が何故、実現したのか?気になり調べてみると、カミュは、無神論者だったらしい。
キリスト教社会における無神論者とは、さぞ孤独な存在だっただろう。
キリスト教の地で、神を信じない事は、許されざる背徳だろう。
 きっと、カミュは、その事で、非難される事も有ったかもしれない。
 一方、主人公のムルソーも、自分の主張が届かず、意見も出来ない裁判で死刑判決となり、司祭にも誹られるのだから、

カミュとムルソーは、どこか似ている。二人とも、誰とも、何も共有出来ず、理解される事もなく、分かり合えないとは、悲劇的なほどの孤立です。

僕は、この小説は、理解されない者の声は、理解できない者に届かない事を描いたように感じます。

この小説が難解だと評される事が多いのは、理解されない者の苦悩を描いたものなら、それを持たない者に伝わらないからだろう。と感じました。

以上です

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