【哲学】人の命は平等だ!というのは綺麗ごとなのかもしれない。
総合的な思考基盤を養うことをテーマに読書した知識を引用・解説していくnote。本稿では5分で哲学概念を学んでいくとする。
突然ですが,この問題を見たことはありますでしょうか。
有名なこのトロッコ問題について改めて考えてみましょう。まずはこのように考えてみます。
世の中全体にとって有益な方を選択する。
人口が減少している世の中です。「できるだけ多くの人の命を助けることこそ世の中にとっていいのは当たり前ではないか!」
そう結論づけるとレバーを引いて5人を救う方が正しいように思えます。中には直感的に「5人を助ける方を選ぶのがいい」と思った方もいるかも知れません。
それは一体なぜでしょうか?「クッキーが1枚よりも5枚の方が沢山食べれるから良い!」と同じ話でしょうか?
もし、1人側の人間が「1000年に1度の天才」だったらどうでしょうか?結論が入れ替わりそうです。それなら1人を残す方が国内、いやもしかすると地球全体での利益になるかもしれません。
でも、代わりに5人を死なせてしまうということは1人を”殺す”よりも5倍の遺族がいて、悲しみの総数は増幅します。この世の中に多くのマイナスの感情を生み出してしまうのです。そう思うとそちらの方がマイナスとも捉えられないでしょうか。
ここで少し見方を変えて、少し私情を挟んでみます。
一人側の方が自分の大切な人だったらどうするか。
世の中の利益と自分のエゴでの天秤です。レバーを引くと自分の大切な人が轢き殺されてしまうことになる。
そんな時に果たしてレバーを引くという選択ができるのか。逆にレバーを引かず傍観していた場合に、死んでしまった5人の遺族に一生恨まれ、自らの道徳感の欠如に苛まれるとしてもレバーを引かずにただ見ていることが出来のでしょうか。
自分の欲望の為にレバーを操作することが美しいのでしょうか。それとも『大切な人はきっと”僕のことはいいから他の人を助けてやってくれ”と言うはずだ』と言い聞かせて自分の大事な人を”殺し”て、他人を守る方が美しいでしょうか。
最後にもう1つ責任問題についてみてみます。
レバーを動かさずに人を死なせてしまう≠殺していな、レバーを動かした場合=殺したことになる?
真っ先にこの疑問が浮かんだ人もいるかも知れません。でも人が死ぬかも知れないと分かっていながら何もせずに”死なせてしまうこと”と”殺すこと”に本質的に差はあるのでしょうか。
目の前で血を流している人がいる。救急車を呼ばずに見ていたら死んで(ああ、相当なサイコパスだ!)しまったらこれは殺したことと同義ではないのか。
一寸の虫にも五分の魂という言葉にもある通り、魂の重さに差はないと言いつつも、人は人間の価値に知らず知らず重み付けをしてしまっているんじゃないだろうか。法の下では責任はなくとも、道徳的な責任が常に要求されるのではないだろうか。
安楽死の制度では、殺すことを目的に鎮痛剤を大量に投与することは認められませんが、患者が痛みを抑えることを求め、その結果大量に投与して死んでしまったら、結果は同じでも法による裁きは変わります。
前者は認められないが、後者は仕方ないという奇妙な結果が導き出されるのです。医者は鎮痛剤を大量に投与すれば殺すことになるのは知っています。でも殺す”意図”ではなく、痛みを抑える”意図”であればOKという仕組みです。
たった1つの問題でも条件や意図によって随分と何が”正しい”かが変わってきます。どれが正解というわけではありません。ただ真理なのはこのような選択を迫られた主人公はとんでもない不運だということでしょう。
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